大垣空襲
1945年7月29日に行われた岐阜県大垣市に対する空襲
大垣空襲(おおがきくうしゅう)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)中アメリカ軍により行われた岐阜県大垣市に対する空襲。
大垣市は計6回空襲を受けている。1945年(昭和20年)3月2日に最初の空襲を受け、同年7月24日には模擬原子爆弾(パンプキン爆弾)が投下されている[1]。
空襲の概要
編集死傷者が極端に少なかった理由
編集この空襲での死傷者数は他の都市の空襲と比較して極端に少なく、かねてから研究者らの間で注目の対象となっていた。当時は防空法により、空襲を受けた場合は退去せず消火活動にあたることが義務付けられていたが、岐阜空襲の惨状を目の当たりにし「焼夷弾に対して火たたきやバケツリレーで火を消せるわけがない」と考えていた少年兵らが、本来ならば非常線を張って逃げる市民を押し戻して消火を命じる立場にあったにもかかわらず、軍紀に反して率先して市民を避難させ、その結果人的被害を激減させていたことが、元少年兵の1人の証言によって明らかとなった。[5]