(おおくら てるこ、1886年4月12日 - 1960年7月18日、本名:(もずめ よしこ))は、日本小説家

読売新聞社『家庭よみうり』358号(1953年)より大倉燁子

国学者物集高見の三女。兄の物集高量国文学者、妹の物集和子小説家

経歴

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東京府東京市本郷区弓町(現・東京都文京区本郷)出身、学歴は東京女子高等師範学校中退[1]。文学を志して妹の和子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した[2]。以後は漱石門下の作家として、本名や「岩田由美」、「岩田百合子」の名義で『兄』、『生家』、『母』などの小説を発表した(1909年 - 1912年)。

澤柳政太郎夫妻の世話で外交官と結婚後、夫とともに滞欧した際は、アーサー・コナン・ドイルの作品に触れている。

その後離婚し、一時は長唄の師匠となったが、探偵小説に転じて中村吉蔵(春雨)や森下雨村大下宇陀児らに師事した。1935年、短篇集『踊る影絵』を出版し、日本初の単行本を出版した女流探偵小説家となった[3]。『オール讀物』『新青年』『宝石』などに執筆した。その他の作品に長篇『殺人流線型』『女の秘密』などがあり、丘ミドリ名義でも作品発表している。墓所は雑司ヶ谷霊園

著書

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翻訳

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脚注

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  1. ^ 大倉燁子 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月9日閲覧
  2. ^ 夏目漱石「長谷川君と余」「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房、1988年
  3. ^ 大倉よりも以前に探偵小説の創作を行っていた女性作家としては、松本恵子(第1作は『秘密探偵雑誌』1923年8月号掲載の「皮剥獄門」、「中野圭介」名義)、一条栄子(第1作は『映画と探偵』1925年12月号掲載の「丘の家」、「小流智尼」名義)らが知られており、大倉は厳密には「日本初の女流探偵小説家」ではない。

関連項目

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外部リンク

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