大久保要
大久保 要(おおくぼ かなめ)は、江戸時代末期の土浦藩の幕末の志士。
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 寛政10年6月10日(1798年7月23日) |
死没 | 安政6年12月13日(1860年1月5日) |
改名 | 靖齋(号) |
別名 | 親春、子信 |
墓所 | 青山霊園立山墓地 |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 土屋寅直 |
藩 | 土浦藩 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:清左衛門(親修) |
先祖
編集大久保氏の遠祖は藤原氏で、三河国大久保氏と同族である。戦国時代は北条氏政に仕え、武功を納めた後、戦死したという。その曽孫・満春の代から、北条旧臣同士であった関係からか、土浦藩主土屋氏に仕え始め、以降代々土浦藩に仕えた。
生涯
編集江戸にて学業を納め、土浦藩致仕となる。天保8年(1837年)藩校郁文館が新設され館頭に就任する。嘉永3年(1850年)藩主土屋寅直が大坂城代に任命されると、大久保はその公用人として随従した。安政元年(1854年)、ロシア船の大坂来航に際しては、これとの折衝に当たった。また、兵庫港の開港に当たっては、畿内の目の前の開港のため、大久保は藩主とともに非常に慎重な議論を要する、との立場を取り、活躍した。
また、安政5年(1858年)5月大坂に来た公卿の大原重徳と面談した。安政の大獄においては、同年8月、薩摩藩士有馬新七より戊午の密勅の内達を受けた。間部詮勝入京直前における勤皇僧月照の京都出奔に際しては、薩摩藩への海路を待つ間、大阪の自宅を月照、西郷隆盛の一時逗留所として提供した。やがて尊王攘夷派の志士として幕府より嫌疑を受け、安政6年(1859年)10月、国元永押込に処せられ、そのまま土浦藩内で病没した。
著書に「懐刀記」がある。
脚注
編集- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
参考文献
編集「贈従四位靖齋大久保要君傳 贈従四位天山藤森恭助君傳」(岡田信之助 著 明治25年5月7日 伊沼爾助 発行兼印刷)