大久保房男
経歴
編集三重県北牟婁郡紀伊長島町(現紀北町)生まれ。旧制津中学校を経て慶應義塾大学国文科で折口信夫に師事する。学徒出陣で1943年に出征、海軍予備学生(第4期)を経て1944年暮に海軍少尉となったが、敗戦により復員し、1945年10月に復学、1946年9月に卒業する。民俗学徒を目指していたが、たまたま入社試験を受けた講談社に合格し、同年11月に同社に入社する。1955年から1966年まで『群像』の編集長を務め、「文学の鬼」と言われて、石原慎太郎や有吉佐和子の作品を一切掲載せず[注釈 1]、活気ある誌面を作った。吉行淳之介や安岡章太郎など「第三の新人」と呼ばれた作家たちを陰で支えた。引退後の1992年、小説『海のまつりごと』で芸術選奨新人賞を受賞、70歳の新人賞で人々を驚かせた。
2014年7月25日午前11時10分、十二指腸乳頭部癌のため東京都練馬区の自宅で死去[3]。92歳没。
大阪大学名誉教授の大久保昌一は弟、国立遺伝学研究所教授の大久保公策は甥にあたる。
霊術家の浜口熊嶽は父の従兄にあたる[4]。自らと同じく国文学学生から海軍に入った阿川弘之とは編集者時代から長年にわたって親交があり、たびたび随筆などでその言動が「鬼のおくび」というニックネームのもとで記されている。
著書
編集脚注
編集注釈
編集- ^ ただし、最初に「『群像』は古臭くて、ぼくには何の興味もない」と大久保に対して発言したのは石原の側であるという。大久保は「これは、『群像』に書く気がないと宣言したのだと思い、縁がなかったと思うことにした」「石原氏の人気が沸騰しているのに、『群像』がその作品を掲載しないのは、石原氏の文学を認めていないからだ、と世間では言っていたが、それは逆で、石原氏が『群像』を認めていないからなのだ」と述べている[1]。しかし石原は西村賢太との対談にて、1957年10月『新潮』に発表した「完全な遊戯」について、高見順宅へ行った際、大久保が「あの小説は許せない」と言ったため口論になり、「君にはもう、一生『群像』で書かせない」と言われたと語っている[2]。