大久保 忠成(おおくぼ ただあきら[2]/ただなり[1][注釈 1])は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武士、徳川家家臣(戦国武将旗本)。大久保忠世の四男で、大久保忠隣の弟。

 
大久保 忠成
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 永禄8年(1565年)または天正6年(1578年
死没 寛文12年1月18日1672年2月16日
別名 虎丸、平吉、四郎左衛門、号:道喝
戒名 日廣
墓所 伊皿子の長応寺
官位 従五位下・玄蕃頭
主君 徳川家康秀忠家光家綱
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠世
兄弟 忠隣忠基忠成、忠高、忠永設楽貞清
福島五郎兵衛の娘
忠重、忠次、娘(菅沼定俊妻)、娘(設楽貞通妻)、娘(安部康孝妻)、娘(大久保康任妻)、娘(大久保忠壽妻)、娘(大久保幸治妻)[1]
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最初の駿府城代であり [注釈 2]、寛永10年(1633年)から明暦2年(1656年)の24年間勤めた。駿河国庵原郡益津郡の中で5000石を知行した旗本大久保玄蕃知行所は明治まで大久保家の領地として9代続いた。歴代大久保家当主を大久保玄蕃)と記載する資料も多い[注釈 3]

略歴

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天正年中、12歳で徳川家康に拝謁。その後、徳川家康に近侍し、九戸政実の乱文禄・慶長の役における名護屋城駐屯、関ヶ原の戦いでの上田城攻めに供奉した[1]

書院番士となった後、慶長19年(1614年)大坂冬の陣では青山忠俊の配下で活躍する。その軍功により領地を1000石加増され、常陸国行方郡上総国武射郡に3000石を知行する[1]

元和2年(1616年)に書院番組頭となる。寛永3年(1626年)8月19日、従五位下・玄蕃頭に叙任する[1]

寛永10年(1633年)2月26日、駿府城代になる。最初の府中御城代(駿府城代)であり、その時、御役地2000石を給わり、大手御門小屋敷(駿府城代が居住する屋敷[注釈 4])を拝領した[3]。領地を改めて駿河国庵原郡・益津郡に5000石を領する。

明暦2年(1656年)6月5日、駿府城代を辞す。寛文10年(1670年)10月23日に致仕し、長男・忠重がその跡を継ぐ。寛文12年(1672年)1月18日亡くなる。法名は日廣、墓地は伊皿子の長慶寺。没年齢については通常95歳とされるが、「寛永諸家系図伝」では天正4年(1576年)に12歳とされているため、それに基づくと108歳となる。どちらかが誤りとみられるが、明確でないため「寛政重修諸家譜」では保留としている[1]。錦屏山長福寺過去帳によると忠成は元和2年(1616年)9月26日に亡くなったとされ、寛文12年(1672年)1月18日に亡くなったのは、忠重との記載がある[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 文献により読み仮名が異なる
  2. ^ 駿国雑志 34巻に大久保玄蕃頭忠成が「府中御城代の始也」と書かれているが、大番頭と御城代を兼ねた松平勝政を駿府城代の最初とする見方もある。知行2000石を与えられる制度としての駿府城代としては大久保玄忠成が始と思われる
  3. ^ 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年、p15、p19、p51、付録資料)では忠成を含む大久保家を大久保玄蕃(頭)と呼んでいる。大久保家は代々玄蕃という役職に就くことが多い。
  4. ^ 駿府城代が変われば、次の駿府城代がそこに住む

出典

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  1. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ 西奈図書館友の会“けやき”『長尾川流域のふるさと昔ばなし』(長田文化堂、2006年、p150)
  3. ^ 『駿国雑志 34巻』明治 8年
  4. ^ 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(P55)

参考文献

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  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年)P.399-400 巻第七百十
  • 寛政重修諸家譜 第6輯』p.922 巻第千百三十五
  • 駿国雑志 34巻』(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー、1875年)
  • 三百諸侯. 第9-12』(国会図書館デジタルコレクション)P.101
  • 西奈村誌1』p87,p96
  • 西奈図書館友の会"けやき"『長尾川流域のふるさと昔ばなし』(長田文化堂、2006年)
  • 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)
  • 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』