大三輪長兵衛

日本の政治家

大三輪 長兵衛(おおみわ ちょうべえ、1835年天保6年6月[1][2] - 1908年明治41年)1月31日[3])は、日本の政治家衆議院議員(2期)。

経歴

編集

筑前国表糟屋郡筥崎(のち、福岡県表糟屋郡箱崎村→糟屋郡箱崎町福岡市、福岡市の政令指定都市施行により、現在の福岡市東区)に生まれる[1][注釈 1]。 幼名、一貫[1]。和学と漢学を学び、長崎に遊学する[1]。一度帰郷した後、1855年安政5年)大阪へ上り、北堀江の商家で働き、独立して締綿問屋を開き、巨額の利益を得て、蝦夷地の物産を扱う店を開く[3]。北海道や馬関九州に商売の手を広げる[1]明治維新後、通商司附北海道商社社長心得となる[1]自由民権運動に賛同し、奔走した[4]1879年(明治12年)手形交換所創立委員となり、交換所を大阪東区に開き、会頭となる[3][4]1884年(明治17年)第五十八国立銀行(のち、第百三十銀行→保善銀行→安田銀行→富士銀行、現・みずほ銀行頭取となる[3][注釈 2]

政治面では大阪市西区会議員[2]、同議長、大阪市会議員、同参事会員、同議長、大阪府会議員、同常置委員、同副議長、議長を務める[3]

1891年(明治24年)朝鮮国王・高宗に招きに応じ、通貨改革に力を尽くし、その功により国王から従二品嘉善大夫を贈られ[4]、交換署会弁に就任[3]。ほか鉄道院監督官、正二品資憲大夫蔘政検察大員にも就いた[3]

1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙において大阪府第1区から山下倶楽部公認で立候補して当選した[5]。同年8月の第6回衆議院議員総選挙において再選[6]。衆議院議員は2期務め、1902年の(明治32年)第7回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。墓所は大阪市営南霊園。

親族

編集
  • 大神一貞 - 祖父、神職。筥崎宮の権大宮司。
  • 大神嘉納 - 父、神職。筥崎宮の権大宮司。
  • 大三輪奈良太郎 - 長男、名古屋明治銀行頭取[7][8]
  • 葦津磯夫 - 弟、筥崎宮宮司[9]。一時、官幣大社香椎宮宮司も兼任[10]福岡農学校校長[11]
  • 葦津耕次郎 - 弟の子、神道家[12]、筥崎宮宮司。鉱山業や社寺建築業を営む実業家、言論人[13]
  • 葦津珍彦 - 弟葦津磯夫の孫、神道研究家。
  • 葦津泰国 - 葦津磯夫の長男、神社新報社元社長。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』138頁では「大阪府出身」。
  2. ^ 『衆議院議員列伝』124頁では「第八十四国立銀行」。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f 山崎謙 編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年、123頁。NDLJP:778032 
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』138頁。
  3. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』139頁。
  4. ^ a b c 山崎謙 編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年、124頁。NDLJP:778032 
  5. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』27頁。
  6. ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』32頁。
  7. ^ 大三輪奈良太郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  8. ^ 大三輪奈良太郎君『名古屋百紳士』馬場籍生 著 (名古屋百紳士発行所, 1917)
  9. ^ 王道を貫いた大三輪朝兵衛浦辺登、『大亜細亜』創刊号、平成28年6月30日、大アジア研究会
  10. ^ 官報. 1897年06月26日
  11. ^ 『大三輪長兵衛の生涯』p208
  12. ^ 西矢貴文「葦津耕次郎 : 「国家神道」期における一神道人の軌跡」京都大学 博士論文甲第14958号、2009年、NAID 500000489926 
  13. ^ 令和2年1月14日 「葦津家之墓」墓参花瑛塾

参考文献

編集
  • 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
  • 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。