多紀元簡

1755-1810, 江戸時代後期の医師
多紀桂山から転送)

多紀 元簡(たき もとやす、宝暦5年(1755年) - 文化7年12月2日1810年12月27日))は、江戸時代後期の医師。は元簡、字は廉夫、幼名は金松、長じて安清、安長と改める。桂山と号し、別号に櫟窓がある。

藤浪剛一『医家先哲肖像集』より多紀元簡

生涯

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多紀元徳(藍渓)の長子として生まれる。儒学井上金峨に、医学を父について修めた。安永6年(1777年)に将軍・徳川家治に目通りが許される。寛政2年(1790年)、老中松平定信にその才を信任され奥医師に抜擢、法眼に叙せられ徳川家斉の侍医となる。寛政3年(1791年)に父の主宰する躋寿館が官立の医学館になると、その助教として医官の子弟の教育にあたった。寛政6年(1794年)に御匙見習となる。寛政11年(1799年)に父が致仕し家督を相続する。同年8月には同族の吉田沢庵とともに御匙役となった。享和元年(1801年)、医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された。文化3年(1806年)に医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した。文化7年(1810年)に再び奥医師として召し出されたが、その年の12月2日に急死した。享年56。墓は城官寺東京都北区上中里一丁目)にある。

考証学者などと交わり、古医学書の蒐集・校訂・覆刻につとめ、のちの伊沢蘭軒多紀元堅小島宝素渋江抽斎森立之らにみる考証医学を確立した。

元簡はまた、長く不明になっていた「本草和名」上下2巻全18編の古写本紅葉山文庫から発見し、同書が再び世に伝えられるようになった。

多紀元悳原撰「観聚方」80巻から記述を精選して『観聚方要補』10巻を編纂しようとしたが急逝したため、元胤・元堅兄弟に引き継がれ、文政2年(1819年)に元簡の遺稿として刊行された[1]。その後、精度向上のために宋版・古鈔の善本医書の資料収集が進められ、元堅と元昕(元胤の嗣子)により安政4年(1857年)に増訂版『観聚方要補』が刊行された[1]

著書

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  • 『傷寒論輯義』
  • 『金匱要略輯義』
  • 『素問識』
  • 『霊枢識』
  • 『扁鵲倉公伝彙考』
  • 『脈学輯要』
  • 『医賸』

脚注

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  1. ^ a b 町泉寿郎「江戸医学館における臨床教育」『日本医史学雑誌』第59巻第1号、2013年、17-33頁。 

参考文献

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  • 森潤三郎『多紀氏の事蹟』(思文閣出版、1931年)