多治比氏
(多治氏から転送)
多治比氏 | |
---|---|
氏姓 | 多治比真人 |
氏祖 |
多治比王 (宣化天皇の三世孫) |
種別 | 皇別 |
本貫 | 河内国多比郡 |
著名な人物 | 多治比嶋 |
後裔 |
岡田家(地下家) 鈴木家(地下家) など |
凡例 / Category:氏 |
宣化天皇の三世孫多治比王を祖とする。丹治比・丹治・丹比など様々に書かれていたが本来の書き方は多治比だったという。733年廣成入唐の際に一時的に丹墀としたが、833年廣成の孫の貞成の代になってから上奏しこの丹墀を正規の書き方とした。866年貞成の子の貞峰が再度上奏し多治と改めた(読みはすべてタヂヒ)。 河内国多比郡を根拠地とする。姓はもと君のちに真人。
概要
編集始祖の多治比王(多治比古王または武彦王とも)の子嶋は697年(73歳)に臣下最高位の左大臣となるなど大臣職を長く務め、当時政界の「最長老」であった[1]。嶋の子らからは第1子池守が大納言、ほか県守と廣成も中納言となった。しかし757年の橘奈良麻呂の乱で犢養(こうしかい)や國人といった一族が加担して処罰されたうえ、藤原種継暗殺者として濱人が処刑された事もあり、平安時代以降官界では奮わなくなった。嶋の玄孫にあたる真宗は、桓武天皇との間に桓武平氏の祖とされる葛原親王を儲けた。
後裔
編集大膳職史生岡田家 関東の武士集団武蔵七党の一つ、秩父の丹党が多治比氏の後裔と称していた(大田原氏、大関氏、青木氏等は丹党を出自とし大名として江戸期まで存続した)。同じく武蔵七党の一つ私市党の中にも丹治比氏の後裔を名乗る者がいた(上記の貞成の子に峯成と貞峯の兄弟あり、兄の峯成は私市党の祖となり、弟の貞峯は丹党の祖となったという)。
系図
編集※以下の系図は、多治比氏の主な人物を示したもので、記載されていない人物も多数存在する。カッコ内の数字は生没年。
継体天皇 (450 - 531) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安閑天皇 (466 - 536) | 宣化天皇 (467 - 539) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上殖葉皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
十市王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比嶋 (624 - 701) | 多治比三宅麻呂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比池守 (661-730) | 多治比水守 (665-711) | 多治比縣守 (668-737) | 多治比広成 (?-739) | 多治比広足 (681-760) | 多治比阿伎良 (?-743) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比家主 (? - 760)[2] | 多治比犢養 (? - 757) | 多治比国人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比長野 (706 - 790)[3] | 多治比浜成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比真宗 (769 - 823)[4] | 桓武天皇 (737 - 806) | 多治比縄主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛原親王 (786 - 853) | 賀陽親王ほか | 多治今継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桓武平氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 高島 (1969), p.11
- ^ “多治比家主とは - コトバンク”. 2012年4月18日閲覧。
- ^ “多治比長野とは - コトバンク”. 2012年4月18日閲覧。
- ^ “多治比真宗とは - コトバンク”. 2012年4月18日閲覧。
参考文献
編集- 高島正人「奈良時代における公卿補任の性格」(PDF)『立正大学人文科学研究所年報』第7巻、立正大学、1969年、pp.3-26。