夏寿康
夏 寿康(か じゅこう)は清末民初の政治家。字は受之。号は仲膺、仲英。
夏寿康 | |
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プロフィール | |
出生: | 1871年(清同治10年) |
死去: |
1923年(民国12年) 中華民国北京市 |
出身地: | 清湖北省黄州府黄岡県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 夏壽康 |
簡体字: | 夏寿康 |
拼音: | Xià Shòukāng |
ラテン字: | Hsia Shou-k'ang |
和名表記: | か じゅこう |
発音転記: | シア ショウカン |
事績
編集1897年(光緒23年)、丁酉科挙人、その翌年には戊戌科進士となり、翰林院庶吉士を授与された。さらに京師大学堂進士館で法政を学び、翰林院編修の肩書も授与された。1903年(光緒29年)、清朝の学部により日本へ政治事情の視察に派遣され、帰国後は湖北省に戻っている。湖北省では黄州師範学堂で監督・堂長を歴任し、1909年(宣統元年)の湖北省咨議局の設立に伴い副議長に選出された。[1][2]
武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、夏寿康は黎元洪により都督府参議や政事部副部長に任用され、後に都督府顧問に移った。この際の内政整理に功績があったことから、1912年(民国元年)6月、湖北省内務司司長に任ぜられる。同年10月、湖北省民政長署理となっている。1913年(民国2年)9月、北京政府中央に召還され、国務院銓叙局局長に任ぜられた。その翌年には政治会議委員に任ぜられ、1915年(民国3年)5月には粛政庁粛政使となる。12月に袁世凱が皇帝に即位すると、夏は少卿の位を授与された。[1][2]
1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去し、黎元洪が後任の大総統になると、夏寿康は同年8月に平政院院長に起用された。翌1917年(民国6年)2月、総統府秘書長に任ぜられ、8月には司法官懲戒委員会委員長に移っている。1920年(民国9年)9月、湖北省省長に任ぜられた。その翌年に京畿河工督弁に任ぜられたが、実際には就任せず、[2]これを最後に政界から引退した。1923年(民国12年)、北京にて病没。享年53。[1][3]
注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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