塩谷宕陰
江戸時代末期の儒学者、翻訳者(1809-1867)
塩谷 宕陰(しおのや とういん、文化6年4月17日(1809年5月30日) - 慶応3年8月28日(1867年9月25日))は、江戸末期の儒学者。
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1809年5月30日 日本、江戸 |
死没 | 1867年9月25日 (58歳没) |
出身校 | 昌平黌 |
学問 | |
研究分野 | 儒学 |
研究機関 | 昌平黌 |
経歴
編集江戸の愛宕山下に生まれる。諱は世弘、通称は甲蔵、字は毅侯、別号は九里香園、悔山、晩薫廬。文政7年(1824年)昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学んだ。遠江掛川藩主の太田家に仕え、嘉永6年(1853年)ペリー来航の際に献策し、海防論を著す[5]。文久2年(1862年)昌平黌教授に抜擢され[要出典]、修史に携わる。
主な業績
編集文部省は1902年(明治35年)に当時の中学校の教育指導要綱を発表し、菊池大麓大臣は漢文の教科の副読本(講読の材料)として「塩谷宕陰の『宕陰存稿』」を提示した[9]。
家族・親族
編集栄典
編集没後刊行の著書
編集- 『宕陰存稿[9]』(山城屋政吉、1870年):「数」巻[12]から「射」巻[13]まで。
- 『大統歌俗解』2巻上、下(松井栄助等、1872年)(明治5年)。
- 『昭代記』(塩谷時敏、1879年)[17]「台徳大君記」、「大猷大君記」で構成。
- 『茗黌廿勝小記』(高美書店、1890年)[18]
- 『宕陰賸稿』(谷門精舎、1931年)[19]
- 『丕揚録』(近藤出版社〈日本史料選書〉、1971年)[19]
写本
- 『阿芙蓉彙聞』名義は塩谷世弘[20]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 写者不明。印記は「秋山」、「心酔亭」、 「耕田樓藏書記」NCID BA69931210
- ^ 塩谷の未定稿を羽倉簡堂(外記)が編んだもの。『籌海私議』書写者不明、書写年不明。表題は『籌海私記』とも。NCID BC05744590
- ^ 籾山衣洲『籾山衣洲遺書』(自筆)、NCID BA91412718
- ^ 書写資料(書写者不明)、蔵書印あり、頭注あり、朱墨の書入れあり、虫損ありNCID BB28380736。国文学研究資料館。
- ^ 写本(塩谷宕陰「籌海私議」[1])。宕陰迂夫『海防私策』『籌海私議』(ちゅうかいしぎ、弘化3年=1846年)の写本[2]。籾山逸也『籾山衣洲遺書』収載の「塩谷世弘稿、93:題夷情備采前、山田長政戰艦図記」[3]。『武備上書叢』収載[4]。
- ^ 国際商業出版株式会社 編『国際商業』第3巻第4号(20)(国際商業出版、1970年)141-146頁。NDLJP:2690782。
- ^ 西東玄「ドラッカー経営哲学はなぜ日本でうけるか(II) 」『国際商業』[6]。
- ^ 今泉省三『長岡藩史要』第5巻(長岡藩史料研究会、1942年)53コマ、NDLJP:1916188。文政10年から元治元年の歴史。
- ^ a b 文部大臣理学博士 菊池大麓「訓令/文部省訓令第3号」大蔵省印刷局 編『官報』1902年(明治35年)02月06日、2コマ。日本マイクロ写真。NDLJP:2948877。doi:10.11501/2948877。2冊のうちもう1冊は、安井息軒著『讀書餘適』(読書余適)。
- ^ 知切光歳「天狗の研究」『出版ニュース』1020号、53頁(コマ番号27)(出版ニュース社、1975年10月)NDLJP:3435349
- ^ 田尻佐 編「特旨贈位年表」『贈位諸賢伝 増補版 上[10]』(近藤出版社、1975年)37頁。
- ^ 『宕陰存稿』:「数」NDLJP:894257。
- ^ 『宕陰存稿』:「射」NDLJP:894262。
- ^ 塩谷世弘『大統歌』(名山閣ほか、1873年)。3コマ、16-30コマ。NDLJP:852952。doi:10.11501/852952
- ^ 『大統歌:小学習字』NDLJP:852953
- ^ 平山政涜 編『大統歌註解』NDLJP:894138、doi:10.11501/894138。
- ^ 巻1-10、合本。NDLJP:772827。
- ^ 土屋榮 編『近世名家小品文鈔』中(小林喜右衛門、1882年)18コマ、 NDLJP:1918170。
- ^ a b 内田周平『遠湖文髄』夏(正諠塾、1940年) NDLJP:1144178。
- ^ 『阿芙蓉彙聞』巻6。NDLJP:12865373。