塚堂古墳
塚堂古墳(つかんどうこふん)は、福岡県うきは市吉井町徳丸・宮田にある古墳。形状は前方後円墳。若宮古墳群を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていない。
塚堂古墳 | |
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別名 | 徳丸古墳 |
所属 | 若宮古墳群 |
所在地 | 福岡県うきは市吉井町徳丸・宮田 |
位置 | 北緯33度20分44.65秒 東経130度46分24.90秒 / 北緯33.3457361度 東経130.7735833度座標: 北緯33度20分44.65秒 東経130度46分24.90秒 / 北緯33.3457361度 東経130.7735833度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長91m 高さ8m(後円部) |
埋葬施設 |
後円部:横穴式石室 (内部に組合式石棺) 前方部:横穴式石室 |
出土品 | 銅鏡・玉類・武器・甲冑・馬具・埴輪 |
築造時期 | 5世紀後半 |
史跡 | なし |
特記事項 | 1墳丘2石室 |
地図 |
概要
編集古墳名 | 墳丘 | 埋葬施設 | 築造時期 | 史跡 | 備考 | |
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月岡古墳 | 前方後円墳 | 95m | 竪穴式石室ほか (長持形石棺) |
5c中 | なし | 出土品は重要文化財 |
塚堂古墳 | 前方後円墳 | 91m | 横穴式石室2基 | 5c後半 | なし | |
日岡古墳 | 前方後円墳 | 74m | 横穴式石室 | 6c初頭 | 国史跡 | 装飾古墳 |
福岡県南部、筑後川南岸の台地上に築造された古墳である。月岡古墳・日岡古墳とともに若宮古墳群を形成する。昭和28年大水害復旧工事の際に後円部墳丘は大きく採土されている。1934年(昭和9年)・1956年(昭和31年)に前方部石室が、1955年(昭和30年)に後円部石室が発掘調査され、1979年(昭和54年)以降に墳丘・周濠の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、墳丘主軸を東西方向として、前方部を西方向に向ける。墳丘外表では河原石による葺石のほか、円筒埴輪・形象埴輪(人物・動物・盾形・靫形・蓋形・家形埴輪)が認められる[1]。墳丘周囲には二重の盾形の周濠が巡らされている。内濠・内堤・外濠は幅8-10メートル・深さ1.5メートルを測り、濠の斜面には墳丘同様の葺石が認められ、濠内は水をたたえたとみられる[1]。埋葬施設は、後円部・前方部における横穴式石室各1基である。いずれも古式の横穴式石室であり、後円部石室(1号石室、非現存)は大きく破壊された状態で、前方部石室(2号石室、現存・調査後埋め戻し)は未盗掘の状態でそれぞれ発掘調査がなされ、銅鏡・玉類・武器・甲冑・馬具など多数の副葬品が検出されている。特に、前方部石室の馬具の年代が先代の月岡古墳の時期に近く、先代から受け継いで副葬された可能性がある点、前方部石室からは武器・武具が多い一方で、後円部石室からは装飾具が多く出土している点で特色を示す[2]。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀後半ごろと推定される。若宮古墳群では月岡古墳に後続し、日岡古墳に先行する時期に位置づけられる。月岡古墳が畿内ヤマト王権との強いつながりを示すのに比して、畿内色が薄れ在地色が強まりつつある様相を示す古墳である[2]。
遺跡歴
編集- 寛文3年(1663年)、長野堰水門工事の際に大石を持ち去ったと伝承(後円部石室石材か)[3]。
- 1934年(昭和9年)、家屋新築に伴う前方部石室の発見・調査:第1次(宮崎勇蔵ら、1935・1938年に「徳丸古墳」・「俗称塚堂古墳」として報告)[3]。
- 1955年(昭和30年)、昭和28年大水害復旧工事の後円部墳丘採土に伴う後円部石室の応急調査:第2次(浮羽高校考古学部、1983年報告に収録)[3]。
- 1956年(昭和31年)、前方部石室内・閉塞石前面の調査:第3次(浮羽高校考古学部、1983年報告に収録)。
- 1979年(昭和54年)、県営圃場整備事業に伴う墳丘北・東側外周の発掘調査:第4次(福岡県教育委員会、1982年に報告)。
- 1979年(昭和54年)、国道210号浮羽バイパス建設工事に伴う周濠部の発掘調査:第5次(福岡県教育委員会、1983年に報告)[3]。
- 1981年(昭和56年)、県営圃場整備事業に伴う墳丘西側外周の発掘調査:第6次(福岡県教育委員会、1983年に報告)[3]。
墳丘
編集墳丘の規模は次の通り。
埋葬施設
編集埋葬施設としては、後円部・前方部のそれぞれにおいて横穴式石室が構築されている。いずれも古式の石室である。
後円部石室(1号石室)は、大きく破壊された状態で発見されている(非現存)。前方部石室よりも一回り大きい規模で、南西方向(くびれ部方向)に開口したとみられる。内部に組合式石棺を据えており、石棺片が出土しているほか、多数の副葬品が検出されている[1]。
前方部石室(2号石室)は、発見時は未盗掘のほぼ完存状態であった(現在は埋め戻し)。単室構造の石室で、西方向に開口し、玄室は長さ約3.1メートル・幅約1.6メートル・高さ約1.9メートルを測る。割石の小口積みによって構築され、壁面には赤色顔料が塗布される。奥壁と両側壁には刀・鉾を載せる突起があったという(非現存)。石室内では、首飾りをして貝製の腕輪を右手にはめた壮年男性の人骨とともに、多数の副葬品が検出されている[1]。
出土品
編集塚堂古墳の石室内で検出された副葬品は次の通り[3]。
後円部石室(1号石室) (1955年) |
前方部石室(2号石室) (1934・1956年) | ||
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玄室 | 閉塞石前面 | ||
装身具 | 仿製鏡 7 硬玉製勾玉 3 ガラス製勾玉 2 ガラス製管玉 ガラス製小玉 ガラス製臼玉 ガラス製粟玉 珪岩製玉 1 金銅鈴 1 |
仿製神獣鏡 1 ガラス製管玉 6 貝釧 1 |
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滑石製品 | 扁平勾玉(剣形品?) 3 有孔円板 5 臼玉 多数 |
有孔円板 4+1 臼玉 720余 |
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武器 | 鉄鏃 多数 鉄刀 鉄剣 鉄鉾 1 |
直刀 9 鉄鉾 2 鉄鏃 多数 |
鉄鏃 |
武具 | 小札甲 胡簶金具 |
横矧板鋲留衝角付冑 1 横矧板革綴短甲 1 横矧板鋲留短甲 1 三角板鋲留短甲 1 小札甲 1 小札 横矧板鋲留衝角付冑 1+? 頸甲 1 肩甲 1 |
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馬具 | 鞍金具 木芯鉄板張輪鐙 鉄地金銅張剣菱形杏葉 三鈴付環鈴 1 鉸具 |
鉸具 3 | 轡 1 鉄製鞍 1 木芯鉄板張輪鐙 1双 雲珠 2 雲珠 2 鉸具 5 |
農工具 | 刀子 1 | タガネ? 1 | |
その他 | 朱?塊 金銅鋲留金具 鉄製端止金具 金銅有孔円板 銅鋺? 獣骨片 土師器片 |
砥石 1 |
後円部石室では装飾具が多く出土したのに対して、前方部石室では武器・武具が多く出土した点で特色を示す[2]。また、前方部出土の馬具は月岡古墳のものと年代が近く、先代から受け継いで副葬した可能性が指摘される[2]。
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装身具
吉井歴史民俗資料館展示(他画像も同様)。 -
鉄鏃・馬具
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鉄鉾・武具・農工具
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鉄刀・鉄剣
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形象埴輪
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盾形埴輪・円筒埴輪
関連施設
編集- 吉井歴史民俗資料館(うきは市吉井町) - 塚堂古墳の出土品を保管・展示。
- 東京国立博物館(東京都台東区) - 塚堂古墳の出土品を保管。
脚注
編集参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(うきは市教育委員会、2007年設置)
- 筑後川流域装飾古墳同時公開解説シート
- 「塚堂古墳の調査」『塚堂遺跡I -福岡県浮羽郡吉井町所在遺跡の調査-』福岡県教育委員会〈一般国道210号線浮羽バイパス関係埋蔵文化財調査報告第1集〉、1983年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 大塚初重「塚堂古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4-490-10260-7。
- 「若宮古墳群」『福岡県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系41〉、2004年。ISBN 4-582-49041-7。
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)
- 田中幸夫「筑後千年村徳丸古墳前方部石室に於ける埋葬の状と遺物の一二」『考古學雜誌』第25巻第1号、考古學會、1935年1月15日、037-042頁。
- 「筑後国浮羽郡千年村徳丸塚堂古墳」『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』 第10輯、福岡県、1938年。
- 『吉井町誌』 第1巻、吉井町、1977年。
- 『塚堂古墳 -福岡県浮羽郡吉井町宮田所在古墳の調査-』吉井町教育委員会〈吉井町文化財調査報告書第1集〉、1982年。
- 『若宮古墳群1 -月岡古墳・塚堂古墳・日岡古墳-』吉井町教育委員会〈吉井町文化財調査報告書第4集〉、1989年。
- 『若宮古墳群2 -塚堂古墳・日岡古墳-』吉井町教育委員会〈吉井町文化財調査報告書第6集〉、1990年。
関連項目
編集外部リンク
編集- 若宮古墳群(日岡・月岡・塚堂古墳) - うきは市ホームページ