堀谷左治郎
堀谷 左治郎(ほりや[1] / ほりたに[2] さじろう、1863年12月7日(文久3年10月27日[3][4]) - 1925年(大正14年)8月30日[1][2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・岸田。左次郎と表記される場合がある[1]。
堀谷左治郎 ほりや さじろう ほりたに さじろう | |
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生年月日 | 1863年12月7日 |
没年月日 | 1925年8月30日(61歳没) |
出身校 | 早稲田中学校 |
前職 | 実業家 |
所属政党 |
(無名倶楽部→) (猶興会→) 無所属 |
選挙区 | 神奈川県横浜市選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1904年 - 1912年5月14日 |
横浜市会議員 | |
在任期間 | 1922年 - ? |
神奈川県会議員 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1894年 - 1904年 |
経歴
編集松代藩士・岸田鉄治の二男として生まれる[1][3][4]。1876年(明治9年)に上京し[1][3]、1879年(明治12年)同人社を卒業[2]。さらに、商業学校、早稲田中学校で学んだ[1]。1880年(明治13年)ころ横浜の叔父・堀谷真治の養子となる[1][注 1]。
養家の質商・米穀仲買業に従事[1][3]。日本絹綿紡績社長に就任し、1892年(明治25年)東京移民会社を創設して数千人の移民を送り出した[1]。その他、横浜実業銀行重役、横浜実業貯蓄銀行重役、安全石油監査役、横浜商業会議所議員などを務めた[1][2][3][4]。
政界では、1894年(明治27年)から1904年(明治37年)まで神奈川県会議員を4期務め、県参事会員にも就任[1][2]。1904年3月、第9回衆議院議員総選挙に神奈川県横浜市から出馬して当選[1][2][3]。次の第10回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた[1][2]。1922年(大正11年)に横浜市会議員に選出された[1]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『横浜近代史辞典』87頁、『大日本人物誌』ほ之部22頁では、明治19年2月に堀谷直治の養子とある。
出典
編集参考文献
編集- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『横浜近代史辞典』湘南堂書店、1986年(『横浜社会辞彙』 (横浜通信社大正7年刊) の改題)。
- 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。
- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。