堀河 康隆(ほりかわ やすたか、1836年3月31日天保7年2月15日) - 1896年明治29年)1月2日)は、幕末公家。明治期の政治家華族子爵)。位階および勲等従二位勲三等右大臣岩倉具視は兄にあたる。

生涯

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従二位に叙せられた父・堀河康親卿と、正二位に叙せられた勧修寺経逸卿の女である母・吉子の子として天保7年2月15日に生まれる。正三位に叙せられた兄堀河親賀の養子となる。父や兄とともに廷臣八十八卿の1人に数えられる。

姉の堀河紀子孝明天皇寵愛を受けて皇女を儲けたために、元治元年3月(1864年)、侍従に抜擢された。明治維新後も兄の岩倉具視が右大臣を務めたため、康隆も江戸期から30年に渡り侍従を務め、宮中において重きをなした。

1883年、兄親賀の子で、康隆の養子となっていた康政が卒去。そのため堀河子爵家は康隆の没後は、子の護麿が継ぐこととなった。

日清戦争の際には、広島市大本営従軍した功により勲三等を授けられた。明治28年12月24日病にかかり、翌年1月2日式部官に任ぜられ、同日薨去享年60。戒名は隆宏徳院殿。祭資幣帛を賜り、1月5日青山霊園に葬られた[1]。子爵家は護麿、康文と続いたが、康文が戦死したため家は断絶した。それにより墓所は無縁墳墓に指定され、2023年撤去された。

参考文献

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脚注

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  1. ^ 青山霊園の墓誌より
日本の爵位
先代
なし
子爵
堀河家初代
1884年 - 1896年
次代
堀河護麿