垣内繁福
垣内 繁福(かきうち しげ?)は江戸時代中期の豪商。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第6代。安房国での漁業を再興し、江戸茅場町に干鰯問屋栖原三九郎店を開いた。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝6年(1678年) |
死没 | 享保20年4月26日(1735年6月16日) |
改名 | 垣内七之丞、太郎兵衛 |
諡号 | 了玄 |
墓所 | 築地真光寺、栖原村施無畏寺 |
氏族 | 藤原姓菊池氏栖原垣内家 |
父母 | 垣内重信、妙順 |
兄弟 | 垣内東皐、閑斎、恂斎 |
妻 | 妙誓 |
子 | 垣内重恕、善蔵、繁安 |
生涯
編集延宝6年(1678年)[1]紀伊国栖原垣内家第5代垣内重信の長男として生まれた[2]。初め七之丞と称し、後に太郎兵衛(弥太郎兵衛[3])と改めた[2]。幼くして叔父垣内常信に就いて交易を学び、その夫人が家事を使用人に任せず自ら行う姿勢にも影響を受けた[2]。
父重信が多額の負債を抱えると、実家に戻り、先祖が行っていたという安房国での漁業を再興することを申し出、18歳で弟垣内嘉広と安房国長狭郡塩見村に赴き、漁師を指揮し、度々病に罹りながらも事業を拡大した[2]。天津村・内浦村・浜荻村で幕府への漁税脱税が横行していたため、漁民と協議して税額を点検し、幕府に自ら監督することを申し出た[2]。常陸国那珂湊・下総国飯岡浦でも許可を得て漁業を行い[2]、常陸・下総では鰯網を垣内網と呼ぶようになった[4]。
元禄16年(1703年)11月22日元禄地震の津波により家屋・船舶・金銭・衣服を失ったが、泥の中から加州清光の刀と漁船の旗を探し当て、池田北谷清水成就院に赴いて杉材を買い付け、数倍の利益を上げた[2]。なお震災時、家来四位六右衛門に金20両を両親の下へ運ばせていたが、浦賀で津波の報を聞きて引き返してきたため、これを叱責してすぐに届けさせたという[4]。
享保4年(1719年)3月江戸茅場町に干鰯問屋を開いて栖原三九郎と号し、「又」字の紋を用い、竜五と呼ばれた[2]。子垣内重恕に家業を譲ると、借金を作った父の二の舞にならないよう、弟嘉広に後見を頼み、自らは隠居して謡曲を楽しんだ[4]。
享保3年(1718年)9月徳川宗直が水上儀左衛門・山田伝兵衛等と栖原村・田村山中に出猟した際、峰坊麓で出迎え、屋敷で夕食を提供した[5]。享保5年(1720年)10月山田伝兵衛等と再び栖原山に出猟した際、賽神山麓で出迎え、自邸で酒肴を提供した[5]。同年10月山田伝兵衛等と熊野に旅行した際、宮原新町で出迎えた[5]。享保6年(1721年)2月13日間宮一八等と海鹿島へ旅行した際、享保7年(1722年)間宮一八等と栖原村北山に出猟した際にも宿を提供した[5]。その後は江戸に常住したが、藩主が出入りの際は城北八間屋たいの瀬まで、領内巡視の際には糸我村か吉川村まで子弟を送迎させた[6]。
享保20年(1735年)4月26日病気により[3]深川蛤町の寓居で死去し、築地真光寺に葬られた[4]。僧により了玄の諡号を与えられ、寛保元年(1741年)6月妻妙誓・子重恕により施無畏寺に伊藤蘭嵎撰の墓碑が建てられた[3]。
文化財
編集親族
編集脚注
編集- ^ 山口 1999, p. 6.
- ^ a b c d e f g h 菊池 1918, p. 5.
- ^ a b c d 湯浅町 1967, p. 945.
- ^ a b c d 菊池 1918, p. 6オ.
- ^ a b c d 菊池 1918, p. 26ウ.
- ^ 菊池 1918, p. 27オ.
- ^ 1697年。
- ^ 館山市 1971, pp. 859–860.
- ^ a b 菊池 1918, p. 29ウ.
- ^ 湯浅町 1967, p. 944.
- ^ 菊池 1918, p. 23ウ.
- ^ 菊池 1918, p. 23オ.
- ^ 菊池 1918, p. 11.
- ^ a b c d e f 菊池 1918, p. 30オ.
- ^ a b 菊池 1918, p. 6ウ.