坪田信義
坪田 信義(つぼた のぶよし、1933年3月12日 - 2022年4月3日)は、元ミズノ野球グラブ職人。王貞治やイチロー、松井秀喜らのグラブを手がけた。大阪府出身。
つぼた のぶよし 坪田 信義 | |
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生誕 |
1933年3月12日 日本・大阪府 |
死没 | 2022年4月3日(89歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | ミズノ野球グラブ職人 |
活動期間 | 1948年 - 2008年 |
受賞 | 黄綬褒章 (2008年) |
略歴
編集1933年3月、大阪府生まれ。野球少年だった。1948年、15歳のときミズノに入社した。グラブ作りを志望し、長い下積みを経て、40歳でようやく特注品作りを任された。王貞治、原辰徳、イチロー、松井秀喜、野茂英雄、松坂大輔、ピート・ローズ、ボビー・バレンタインなど日米のトッププレイヤーのグラブを手がけ、グラブ名人とよばれた。ポジション別のグラブをはじめて世に送り出したことでも知られる。1998年、労働省(現厚生労働省)の「現代の名工」に選ばれ、2000年に黄綬褒章を受賞した。ミズノの職人で最高位の「グラブマイスター」の称号を持ち、2008年に退社した。2022年4月3日、老衰のため死去した。享年89[1][2]。イチローは坪田をしのび、「選手の要望は職人さんにとって時に残酷なものですが、いつも想像を超えるものをつくっていだいた。まさに名人芸だった」とたたえた[3]。
人物
編集肩書きはグラブ職人であるが、本人は自分は職人ではない、自分を押し付けるのではなく、選手の要望に忠実に応える技術者だ、と主張した。「私らの先生は、選手です。一人一人の希望を形にするのが仕事ですから。職人のこだわりなんていらない。自分の意見を押しつけたら、あかんのです。」一番苦心して作ったのはプロの選手用ではなく、指を失った少年のためのグラブだった[4][5]。
エピソード
編集1978年春、ミズノは米国に進出した。坪田らはキャンピングカーにグラブを積み込み、大リーグのキャンプを巡回した。修理を頼まれると快く引き受けた。選手の特徴をすぐつかんで数分で直す坪田の手は「マジックハンド」と呼ばれた[4]。
テレビ番組
編集- 日経スペシャル ガイアの夜明け 俺たちの技を継げ! ~団塊の匠が消える日~(2005年9月13日、テレビ東京)[6]。
著書
編集- 『迷ったときこそ、続けなさい!』(著者:坪田信義 根本真吾)(2010年1月11日、クロスメディア・パブリッシング(インプレス))ISBN 978-4844370857