坂田警軒
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坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日(1839年6月15日) - 明治32年(1899年)8月15日)は、明治期の漢学者、衆議院議員。名は丈、字は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨と号した。
経歴
編集備中国川上郡九名村(現・岡山県井原市)に生まれる。阪谷朗廬の甥。嘉永6年(1853年)に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。慶応元年(1865年)に江戸に出て安井息軒に師事し、慶応3年(1867年)に帰郷して岡山藩家老池田氏の賓師から、明治元年(1868年)に阪谷朗廬の後をうけて第2代興譲館館長に就任。明治19年(1886年)に同志社で漢学を講じた[1]。
明治23年(1890年)に岡山県選出で第1回衆議院議員総選挙に当選(以後2回当選)。明治26年(1893年)には東京に移り、慶應義塾および高等師範学校で講師を務めた。
脚注
編集- ^ 青山霞村 『同志社五十年裏面史』 からすき社、1931年、145-147頁
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.48
参考文献
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