坂本則美
坂本 則美(さかもと のりみ[1]、または のりよし[2]、1848年もしくは1850年頃 - 1913年9月15日)は、明治時代の日本の実業家、政治家。土佐藩出身。貧困児童救育事業で明治初頭に活躍し、高知県会議員を務めた。その後、琵琶湖疏水建設事業に携わり、さらに衆議院議員を務めた。さらにその後、実業界に転身し、総武鉄道社長、夕張炭鉱社長などを務めた。
坂本 則美 さかもと のりみ または のりよし | |
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生年月日 | 1848年~1850年頃 |
出生地 | 高知県土佐郡一宮村 |
没年月日 | 1913年9月15日 |
死没地 | 東京都麹町 |
高知県会議員 | |
在任期間 | 1879年 - 1889年 |
当選回数 | 二回(三回?) |
生涯
編集1848年あるいは1850年頃[注釈 1]、高知県土佐郡一宮村(現在の高知市)に生まれる[3][1]。高知藩士坂本覚次郎の三男[3]。明治7、8年ごろから貧児救育事業を始め[1]、貧児救育事業団体の詵々社の社長となり[1]、高知慈善協会の設立にも関わった[2]。1879年に高知県会議員に当選し[1]、議会副議長などに選ばれ[3]、1882年まで議員を務めた[1]。
1885年に京都府知事北垣国道の招聘で京都府疏水事務所理事となった[1]。1889年に京都市参事会員[3]。1892年に衆議院議員となり[3][1][2]、二回[2][1](三回?[3])当選した。外務大臣大隈重信の条約改正に反対し、上京して直接面談して反対意見を述べて世論喚起を図った[1]。
その後は実業界で活躍した。総武鉄道の人員整理に活躍し、取締役社長に推挙された[3]。1898年、北海道鉄道株式会社専務取締役理事となった[3]。さらに夕張炭鉱社長、京都合資会社社長などを歴任した[3]。1913年9月15日、肝臓炎により東京麹町の自宅で死亡[3]。20日に青松寺で葬儀が行われ、遺骨は後に京都の紫野徳大寺に葬られた[3]。戒名は「聖諦院不識則美居士」[3]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 「弘化四年十一月二十六日」(矢部)、「嘉永3年」「生年が弘化4年とする説もある」(国立国会図書館)、「1848年」「弘化(こうか)4年11月26日生まれ」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)、「1850年」(『日外アソシエーツ 人名事典』)。西暦では、弘化4年11月26日は1848年1月2日、嘉永3年は1850~1851年にあたる。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j 国立国会図書館 『坂本則美 | 近代日本人の肖像』 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/88/ 2004年
- ^ a b c d 講談社 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 https://kotobank.jp/word/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%89%87%E7%BE%8E-1077638 2009年
- ^ a b c d e f g h i j k l 矢部信太郎編『近代名士之面影.第1集』竹帛社、1914年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967109/161