土屋 源市(つちや げんいち、1888年明治21年)7月1日[1][2][3] - 1968年昭和43年[注釈 1]7月8日[1][4])は、明治末から昭和期の獣医師政治家実業家衆議院議員岡山県新見市長、同市名誉市民[1]。旧姓・佐々木。和牛の改良に心血を注ぎ岡山県の「和牛の父」と称された[1][2]

土屋源市
つちや げんいち
生年月日 1888年7月1日
出生地 日本の旗 日本 岡山県阿賀郡実村
(現岡山県新見市)
没年月日 (1968-07-08) 1968年7月8日(80歳没)[注釈 1]
出身校 岡山県農学校獣医科卒業
(現岡山県立高松農業高等学校)
所属政党 (翼賛政治会→)
日本進歩党
配偶者 土屋けい

選挙区 岡山県第2選挙区
当選回数 1回
在任期間 1942年4月30日 - 1945年12月18日

当選回数 1回
在任期間 1954年7月1日 - 1958年6月30日


岡山県会議員
当選回数 3回
在任期間 1931年9月 - 1942年
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経歴

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岡山県[4]阿賀郡実村[1]千屋村阿哲郡千屋村を経て現新見市千屋実)で、農業・佐々木久太郎の三男として生まれる[1][2][3]。1908年(明治41年[注釈 2])岡山県農学校(現岡山県立高松農業高等学校)獣医科を卒業した[1][2][5][6]。1913年(大正2年)阿哲郡美穀村唐松の土屋和吉の養子となる[2][3][6]

阿哲郡吏員、同農業技手、阿哲郡産牛馬組合技師を務め、千屋牛の改良に尽力した[1][2][4][3]。1920年(大正9年)阿哲畜産 (株) が設立されると支配人に就任し、その後、同社長を務めた[1][4]。その他、阿哲郡産牛馬組合長、阿哲郡産業組合長、新見町産業組合理事長、阿哲郡商業組合長、全国和牛登録協会初代副会長、中国和牛協会初代副会長、岡山県畜産組合連合会長などを務めた[1][4][5][6]

政界では、1931年(昭和6年)9月、岡山県会議員に選出され、連続3期11年在任し、同議長も務めた[1][2][5][7]。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け岡山県第2区から出馬して当選し[1][2][8][9]、衆議院議員に1期在任[4]。この間、翼賛政治会政調農林委員、同商工兼務委員などを務め[5]、その後、日本進歩党に所属した[4]

戦後、公職追放となった[1][2][10]。追放解除後、1954年(昭和29年)7月、初代新見市長に就任し、体調が理由で1期在任して引退した[1][2][11]

親族

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  • 妻 土屋けい(養父長女)[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』300頁、『岡山県大百科事典 下』208頁では昭和35年(1960年)。
  2. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』413頁では明治40年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『岡山県歴史人物事典』648頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『岡山県大百科事典 下』208頁。
  3. ^ a b c d 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』295頁。
  4. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』413頁。
  5. ^ a b c d 『翼賛議員銘鑑』258頁。
  6. ^ a b c d 『人事興信録 第14版 下』ツ34頁。
  7. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』297-298頁。
  8. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』298-299頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』425頁。
  10. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿681頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。
  11. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』299-300頁。

参考文献

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  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 山陽新聞社編『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』山陽新聞社、1979年。
  • 『岡山県大百科事典 下』山陽新聞社、1980年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。