土宜法龍
土宜 法龍(どき ほうりゅう、嘉永7年(1854年)8月[1] - 大正12年(1923年)1月10日)は、近代日本仏教史を代表する仏教学者、僧侶。字は覚意、号は雲外、木母堂、幼名は光九、土岐とも書く。高野山学林長、仁和寺門跡(36代)、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを歴任[2]。
土宜 法竜 | |
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生誕 |
1854年 日本、尾張国 |
死没 |
1923年1月10日 日本、和歌山県 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 仏教学 |
研究機関 | 高野山、金剛峯寺 |
出身校 | 慶應義塾別科 |
主な業績 | 密教、チベット仏教、曼荼羅 |
プロジェクト:人物伝 |
経歴
編集尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)生まれ。尼である伯母の手により4歳の時、幼くして出家した。1869年(明治2年)より高野山の伝法入壇に入る。
1876年(明治9年)田中正彜の協力により上京、慶應義塾別科に入学し卒業。福澤諭吉の仏教保護方針の下、禅僧の釈宗演と並び慶應義塾精神界の二大明星とうたわれた。1881年(明治14年)に真言宗法務所課長。渡辺雲照(釈雲照)を補佐し、後七日御修法(宮中真言院で伝承されていたが、維新の神仏分離で途絶した)を東寺にて再興する。十善戒を守ることを主眼とした「十善会」を主宰し、山岡鉄舟、久邇宮朝彦、小松宮彰仁らが参禅した[3]。
1893年(明治26年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)、芦津実全(天台宗)、八淵蟠龍(浄土真宗本願寺派)の仏教学者四名で渡米した(なお、島地黙雷と南条文雄は欠席)。また当時東洋学の中心だったパリ・ギメ美術館で、仏教関係の資料の調査と研究を行う[4]。
横浜正金銀行ロンドン支店長・中井芳楠の家にて南方熊楠と面会し、以来没するまで、約30年間に渡って膨大な往復書簡が交わされた[5]。
西域、チベットなども旅し、伝統的な真言教学の上に、近代欧州的なインド古典学、仏教学の研究方法を導入し、以後の密教学研究の基礎を築いた。1906年(明治39年)より真言宗御室派管長に就いた[6]。
関連項目
編集関連文献
編集- 『南方熊楠 土宜法竜 往復書簡』 飯倉照平・長谷川興蔵編、八坂書房、1990年 ISBN 4896945999
- 『木母堂全集 伝記・土宜法龍』 大空社〈伝記叢書〉1994年。宮崎忍海解説、復刻版(元版:六大新報社、大正13年(1924年))
- 『高山寺蔵 南方熊楠書翰 土宜法龍宛 1893-1922』 奥山直司ほか編、藤原書店、2010年 ISBN 4894347350
参考文献
編集- 土宜法竜(どぎ ほうりゅう):南方熊楠のキャラメル箱人名事典
- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、181-182頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
- 奥山直司「土宜法龍とチベット」-『熊楠研究』(3), 南方熊楠資料研究会, 204-217頁, 2001-03
研究文献
編集- 小田龍哉『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』左右社、2021年
脚注
編集- ^ 『土宜法竜』 - コトバンク
- ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 講談社、2015年
- ^ 『木母堂全集 伝記・土宜法龍』 大空社〈伝記叢書〉1994年。宮崎忍海解説、復刻版(元版:六大新報社、大正13年(1924年))
- ^ 『高山寺蔵 南方熊楠書翰 土宜法龍宛 1893-1922』 奥山直司ほか編、藤原書店、2010年 ISBN 4894347350
- ^ 編著『南方マンダラ』(河出文庫、新版2015年)で一部紹介されている
- ^ 『南方熊楠 土宜法竜 往復書簡』 飯倉照平・長谷川興蔵編、八坂書房、1990年 ISBN 4896945999
- ^ “Google Maps”. 2020年3月22日閲覧。
外部リンク
編集- 大乗寺 円山派デジタルミュージアム - 土宜法龍筆「境閑意自適」
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