国木田治子
国木田 治子(くにきだ はるこ、1879年(明治12年)8月7日 - 1962年(昭和37年)12月22日)は、明治から昭和時代にかけての女性。小説家。本名は治。国木田独歩の妻。夫の没前後の約10年間、小説を書いた。
誕生 |
榎本治 1879年8月7日 東京市神田末廣町 |
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死没 | 1962年12月22日(83歳没) |
墓地 | 青山霊園 |
職業 | 作家・主婦 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1903年 - 1913年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『破産』(長編)、『愁ひ』(短編) |
デビュー作 | 『貞ちゃん』 |
配偶者 | 国木田独歩 |
子供 | 4人 |
ウィキポータル 文学 |
生涯
編集榎本正忠と米との第一子として、東京市神田末広町(現・東京都千代田区外神田)に生まれた。正忠は旗本の三男で、士官学校で図画を教えたこともあった。1888年(明治21年)、家が麹町一番町へ移り、富士見小学校に入った。
1895年(明治28年)、16歳の時に父・正忠が没して榎本家の戸主となる。1898年(明治31年)、19歳で隣家の下宿人だった国木田独歩と結婚した。独歩は再婚であった。貧しさの中で転々と引っ越しながら、1899年(明治32年)に長女・貞子、1902年(明治35年)1月に長男・虎雄、1904年(明治37年)に二女・みどりを生む。
1902年(明治35年)、独歩が職を得て暮らしが落ち着き、23歳の治子は小説を書き始めた。独歩の愛人が同居するなど家が乱れたが、独歩は1908年(明治41年)に没した。その3ヶ月後に二男・哲二が生まれる。
1911年(明治44年)、32歳で『青鞜』の賛助員となり、創刊号に『猫の蚤』を載せた。1912年(明治45年/大正元年)から1918年(大正7年)まで三越の食堂部に勤め、また生け花を教えて生活費を稼ぎ、約10年に及んだ文筆活動からは遠ざかった。
晩年を二女・柴田みどり方で過ごし、1962年(昭和37年)に没した。
人物
編集貧乏暮らしに愚痴ひとつ言うこともなく独歩に尽くし、周囲からその良妻ぶりを褒め称えられている。独歩自身も「極めて余に忠実なり」と書き残している。[1]
文筆の記録
編集各列の → 印の後ろは、再版や文学全集への収録など。
- 『貞ちゃん』、婦人界(1903年1月)
- 『料理会』、新古文林(1906年6月)、(新古文林は、独歩が当時発行していた雑誌)
- 『愁ひ』、新古文林(1906年8月)
- 『お露』、東洋婦人画報(1907年10月)
- 『胸騒ぎ』、東洋婦人画報(1907年11月)
- 『当世』、中央公論(1908年2月)
- 『家庭に於ける独歩』、新潮(1908年7月)
- 『破産』、『萬朝報』(1908年8月18日 - 9月30日)→ (「現代日本文学大系5、筑摩書房(1972)」に収録
- 『モデル』、中央公論(1908年11月)→ (「岡田八千代編:『閨秀小説12編』、博文館(1912)」に収録)
- 『真ごころ』、婦人倶楽部(1908年12月)
- 『孫』、活動之友(1909年1月)
- 『報』、読売新聞(1909年1月)
- 『黄八丈』、新世紀(1909年5月)
- 国木田独歩・治子共著:『黄金の林』、有倫堂(1909年12月)(独歩の作品と治子の『破産』とを収録)→ 大阪屋(1916年)
- (編著)、『独歩書簡』、新潮社(1910年5月)
- (編著)、『独歩小品』、新潮社(1910年5月)
- 『鶉』、中央公論(1910年12月)
- 『妹』、婦人界(1911年6月)
- 『猫の蚤』、青鞜(1911年9月)
- 『萩の宿』、少女の友(1911年9月)
- 『おさと』、文芸倶楽部(1913年6月)
- 『小夜千鳥』、岡村書店(1914年3月)
- (編著)、『独歩手記』、早稲田文学社(1916年5月)
- 『夫独歩の謎』、筑摩書房 現代日本文学全集50の月報(1956年)
没後
- 『破産』、「筑摩書房 明治女流文学集 2(1965年)」中の一篇
- 『破産』、「筑摩書房 現代日本文学大系 5(1972年)ISBN 9784480100054」中の一篇
出典
編集- 福谷幸子編:『国木田治子年譜』(「筑摩書房 現代日本文学大系 5(1972)」の巻末)
- 塩田良平:『明治女性作家論(抄)』(「筑摩書房 明治女流文学集 2(1965)」の巻末)
- らいてう研究会編:『「青鞜」人物事典 110人の群像』、大修館書店(2001)ISBN 9784469012668
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 破産国木田治子、『黄金の林』 (日高有倫堂, 1910)