国事御用掛
幕末に設けられた役職
国事御用掛(こくじごようがかり)は、日本における江戸時代幕末、文久2年12月9日(1863年1月28日)、国事を議するために設けられた役職。同日付けにて廃止された国事御用書記の発展的改組ともいえる。同日付の「維新史料要綱」(東京大学史料編纂所データベース)によれば、国事御用掛について「言路洞開(げんろとうかい)の聖旨(せいし)を廷臣に宣布し、所見あるものは御用掛を経て上申せしめ、予て軽挙妄動を戒慎せしむ。」とあり、該当の公家は下記の通りである。なお、慶応3年12月9日(1868年1月3日)付けの「王政復古の大号令」により廃止された。
就任者 (名前の読み) |
年齢 (就任時・数え年) |
位階・官職 (就任時) |
役職等 |
---|---|---|---|
近衛忠煕 (このえ ただひろ) |
55歳 | 従一位・関白 | |
一条忠香 (いちじょう ただか) |
51歳 | 従一位・左大臣 | |
二条斉敬 (にじょう なりゆき) |
47歳 | 従一位・右大臣 | |
尊融入道親王 (そんゆうにゅうどうしんのう) |
39歳 | 青蓮院門主 | |
鷹司輔煕 (たかつかさ すけひろ) |
56歳 | 従一位・前右大臣 | |
徳大寺公純 (とくだいじ きんいと) |
42歳 | 正二位・内大臣・右近衛大将・右馬寮御監 | |
中山忠能 (なかやま ただやす) |
54歳 | 正二位・権大納言 | 議奏 |
飛鳥井雅典 (あすかい まさのり) |
38歳 | 従二位・権中納言 | |
正親町三条実愛 (おおぎまちさんじょう さねなる) |
43歳 | 正二位・権大納言 | |
三条実美 (さんじょう さねとみ) |
26歳 | 従三位・権中納言 | |
阿野公誠 (あの きんみ) |
45歳 | 正四位下・参議・左近衛権中将 | |
長谷信篤 (ながたに のぶあつ) |
45歳 | 正三位 | 議奏加勢 |
坊城俊克 (ぼうじょう としかつ) |
61歳 | 正二位・権大納言 | 武家伝奏 |
野宮定功 (ののみや さだいさ) |
48歳 | 正三位・参議・左近衛権中将 | |
近衛忠房 (このえ ただふさ) |
25歳 | 正二位・権大納言・左近衛大将・左馬寮御監 | |
一条実良 (いちじょう さねよし) |
28歳 | 正二位・権大納言 | |
広幡忠礼 (ひろはた ただあや) |
39歳 | 武家伝奏 | |
三条西季知 (さんじょうにし すえとも) |
52歳 | 正二位・権中納言 | |
庭田重胤 (にわた しげたね) |
42歳 | 従二位・権中納言 | |
徳大寺実則 (とくだいじ さねつね) |
24歳 | 正三位・権中納言 | 議奏加勢 |
橋本実麗 (はしもと さねあきら) |
54歳 | 従三位・参議・右近衛権中将・丹波権守 | |
柳原光愛 (やなぎはら みつなる) |
45歳 | 従二位・検非違使別当・参議・右衛門督 | |
大原重徳 (おおはら しげとみ) |
62歳 | 正三位・左衛門督 | |
河鰭公述 (かわばた きんあきら) |
34歳 | 従四位下?・右近衛権少将 | |
東久世通禧 (ひがしくぜ みちとみ) |
30歳 | 正四位下・左近衛権少将 | |
裏辻公愛 (うらつじ きんよし) |
42歳 | 従四位下?・侍従 | |
橋本実梁 (はしもと さねやな) |
29歳 | ||
万里小路博房 (までのこうじ ひろふさ) |
39歳 | 正五位上・検非違使権右中弁右衛門権佐 | |
勘解由小路資生 (かでのこうじ すけより) |
36歳 | 正五位下・中務少輔 | |
姉小路公知 (あねがこうじ きんとも) |
24歳 | 正四位下・右近衛権少将 |
※人名のふりがなの多くは、『平成新修旧華族家系大成』(霞会館発行)を参考。