四条隆英
日本の商工官僚、政治家、実業家、華族
四条 隆英(しじょう たかふさ、旧字体:四條 隆󠄁英、1876年(明治9年)2月26日 - 1936年(昭和11年)1月2日[1])は、日本の商工官僚、政治家、実業家、華族。農商務次官、初代商工次官、貴族院男爵議員。旧名・二条支英[1][2]。
四條 隆󠄁英 | |
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生年月日 | 1876年2月26日 |
出生地 | 日本 京都府京都 |
没年月日 | 1936年1月2日(59歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治学科卒業 |
前職 | 帝国製麻社長 |
所属政党 | 公正会 |
称号 | 正三位 |
配偶者 | 四条駒子 |
親族 |
養父・四条隆平(貴族院議員) 兄・二条正麿(貴族院議員) |
在任期間 | 1932年5月28日 - 1936年1月2日 |
経歴
編集京都府京都で[3]、華族・二条斉敬の四男[注 1]として生まれ、男爵・四条隆平の養子となる[1][4]。養父の死去に伴い家督を相続し、1911年8月1日に男爵を襲爵した[5]。
第二高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[4]。同年7月、農商務省に入省し山林局書記に任官[4]。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格[4][6]。
以後、山林局監督官、山林事務官兼農商務書記官、山林局庶務課長、鉱山監督署事務官・東京鉱山監督署、農商務書記官・鉱山局鉱政課長、農商務大臣秘書官・大臣官房秘書課長、商工局工務課長、臨時博覧会事務局出品課長、工務局長兼臨時産業調査局第三部長、農商務次官、商工次官などを歴任[4][7]。
1929年4月に依願免本官となり退官し[4]、高橋是清の推薦[8]で安田保善社理事となり、安田生命保険社長、帝国製麻社長などを務めた[4][7]。
1932年5月28日、貴族院議員補欠選挙で男爵議員に選出され[2][9]、公正会に所属し死去するまで在任した[7]。その他、鉄道会議議員、航空評議会評議員、保善商工教育財団理事長、日本工業倶楽部理事、らい予防協会理事などを務めた[7]。
栄典
編集親族
編集- 父:二条斉敬(1816 - 1878)- 最後の関白。
- 母:某
- 養父:四条隆平(1841 - 1911)
- 妻:駒子(1882 - 1971)- 四条隆平の娘[1]
- 長女:英子(1903 - 1991)- 鷹司熙通公爵の子・松園信淳男爵の妻。
- 次女:華子(1905 - 1983)- 右田毛利家第13代当主・毛利祥久男爵の子・重雄の妻。
- 三女:芳子(1910 - 1987)- 加藤勝三の妻。
- 四女:輝子(1911 - ?)- 三井南家第9代当主・三井高徳男爵の子・高起の妻。
- 五女:治子(1913 - ?)- 三条西家第19代当主・三条西公正伯爵の妻。
- 長男:隆秀(1914 - 1938)- 四条家(分家)第3代当主。
- 六女:光子(1916 - ?)- 大村子爵家(大村益次郎の子孫)当主・泰敏子爵の妻。
- 次男:隆貞(1918 - 1993)- 四条家(分家)第4代当主。兄・隆秀の死後、跡を継ぐ。
- 七女:倭子(1920 - ?)- 坪谷正二の妻。
- 八女:富子(1923 - ?)- 森川通誠の妻。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 内閣・昭和11年「故男爵四条隆英叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113162600
- 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《上巻》吉川弘文館、1996年。
- 秦郁彦 編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 神谷久覚「四條隆英試論」『四條男爵家の維新と近代』、同成社、2012年。 - 尚友倶楽部・華族史料研究会編
日本の爵位 | ||
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先代 四条隆平 |
男爵 四条家(分家)第2代 1911年 - 1936年 |
次代 四条隆秀 |
学職 | ||
先代 結城豊太郎 |
保善商工教育財団理事長 1929年 - 1936年 |
次代 森広蔵 |
ビジネス | ||
先代 安田善五郎 |
安田生命保険社長 1930年 - 1936年 |
次代 安田善次郎 |
先代 安田善助 |
帝国製麻社長 1930年 - 1936年 |
次代 安田善次郎 |