四ツ車大八
四ツ車 大八(よつぐるま だいはち、1772年〈明和9年〉 - 1809年〈文化6年〉4月3日)は、江戸時代の力士である。『め組の喧嘩』の中心人物として知られる[1]。
人物
編集出羽国五十目村下タ町(現在の秋田県五城目町下タ町)の生まれ。本名は永蔵。母親が造り酒屋の渡辺彦兵衛商店[2]で働いており、永蔵も母親に連れられて店に出入りし、帳場で読み書きそろばんを教わることもあった[3]。
旅人宿をしていた荒川家の娘婿になると[4]、頑健な体格が巡業中の力士の目にとまり、勧められて江戸に出て柏戸宗五郎 (初代)に弟子入りした[3]。四股名を2代目四ツ車大八とし[5]、最高位は前頭3枚目までのぼりつめた[3]。また大八は、講談や芝居『神明恵和合取組』などの題材にもなった「め組の喧嘩」で大立ち回りを演じ、その中心的人物の一人としても名を馳せた[1]。
奥羽地方巡業中に客死した。死因は病死とも、けんかの際に鳶口で殴られた傷が悪化したためともされる[4]。東京都江東区北砂町の因速寺に墓所がある[1]。
『四ツ車大八』の四股名は以後伊勢ノ海部屋にて由緒ある名前として受け継がれ[6]、2008年には8代目四ツ車が西十両8枚目に昇進した[7]。
脚注
編集- ^ a b c 秋田魁新報社 編『秋田人名大事典』ISBN 978-4870202061
- ^ 後の福禄寿酒造。先年まで「四ツ車」という銘柄の日本酒と「大八」という銘柄の焼酎があった。四ツ車大八の化粧回しも所蔵していたが大正10年の火事で焼失した。
- ^ a b c 五城目町教育委員会『すばらしい先輩たち 第2集』
- ^ a b 渡部和夫『秋田の力士たち』秋田魁新報社、1983、ISBN 4870200244
- ^ 初代四ツ車はおよそ20年間幕内に在位し、最高位は小結。2代目と同じ出羽国の出身であったために、2代目四ツ車の四股名が継がれたとされる(『秋田の力士たち』)。
- ^ 四ツ車勝五郎(文化9年冬初土俵、最高位前頭1、栃木県佐野市出身)、四ツ車(天保6年春十両、最高位十両4)、四ツ車(明治18年夏十両、最高位十両1格)、四ツ車(大正2年夏十両、最高位十両13)
- ^ goo大相撲『大相撲コラム集(注目の幕下力士) 』