嚮導艦
嚮導艦(きょうどうかん)[1](flotilla leader)は、駆逐艦隊を指揮する旗艦。小型巡洋艦あるいは大型駆逐艦がその任に当たり、駆逐艦の場合は嚮導駆逐艦(きょうどうくちくかん)[1](destroyer leader)と呼ばれる。 第一次世界大戦で発展した艦種だが、ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮会議後の発展や運用は、地域や各国で異なる[2][注釈 1]。
概要
編集嚮導艦は、作戦室や無線室など艦隊指揮官用の旗艦設備を持ち、艦隊の指揮が行えるようになっている[注釈 1]。艦隊の旗艦任務は従来軽巡洋艦が担当していたが、1900年代初めに新たな設計の駆逐艦が増え、艦隊の巡航速度が上昇すると従来の巡洋艦では艦隊の速度の歩調を合わせることができなくなり始めた。やがて嚮導艦として大型の駆逐艦が建造され、指揮任務を担うようになっていった[注釈 1]。
嚮導艦(嚮導駆逐艦)の用途と発展は、列強各国で異なる[注釈 1]。 駆逐艦が対水雷艇任務のみではなく多種の目的に使用されるようになり、通信技術の進歩で艦隊指揮能力も向上するようになると、全ての駆逐艦が艦隊指揮能力を持てるようになり、専門の駆逐艦隊指揮艦の必要性は減少した。イギリス海軍で最後に建造された専門の嚮導駆逐艦は、1936年のI級嚮導艦「イングルフィールド」(HMS Inglefield, D02)であった。その後の嚮導艦は姉妹艦と同じ設計が使用されるようになったが、細部の艤装には、リーダー任務に適したような変更が加えられている。イギリス海軍では嚮導艦およびその指揮官は「キャプテン (D)」(Captain (D))と呼ばれ、その煙突に色の帯が塗装され、識別された。
また、アドヴェンチャー級を初めとする防護巡洋艦の派生として、艦隊前衛での偵察任務を主目的として作られた「偵察巡洋艦(Scout cruiser)」は駆逐艦の旗艦としての運用も想定されており、後年の軽巡洋艦の雛型になるものがあった。
アメリカ海軍
編集アメリカ海軍においては、1930年代にポーター級[4]、サマーズ級が建造されたが、第二次世界大戦勃発後に軽巡洋艦が旗艦として用いられるようになったために、嚮導艦として用いられることはほとんどなかった。
1950年代、従来の巡洋艦と駆逐艦との間を埋める中等(Mid-Mix)コンセプト艦として嚮導駆逐艦(DL)の整備が開始されたが、アメリカ海軍において嚮導駆逐艦はフリゲートと通称されており、新しい強力な対潜・水測兵装や、新しいテクノロジーである艦対空ミサイルを搭載して、空母戦闘群を構成する戦闘艦、あるいは水上戦闘群の旗艦として行動するように構想されていたため、原義での嚮導駆逐艦とは意味合いが異なる。初期に建造されたものは対潜任務に主眼をおいたもの(DL)であったが、1960年から就役を開始したファラガット級および、それ以後に建造された艦では艦隊防空ミサイルを搭載して防空艦となったミサイル・フリゲート(DLG)とされた。ただし、1975年の種別方法変更に伴って嚮導駆逐艦の名称は消滅し、嚮導駆逐艦に種別されていた艦はその大きさに従って、ミッチャー級とファラガット級は駆逐艦(DD)もしくはミサイル駆逐艦(DDG)へ、それ以外の艦(リーヒ級、「ベインブリッジ」、ベルナップ級、「トラクスタン」、カリフォルニア級、バージニア級)はミサイル巡洋艦(CG/CGN)に変更された。
大日本帝国海軍
編集大日本帝国海軍は「嚮導艦」「嚮導駆逐艦」という艦型・艦種を規定していなかった[注釈 2]。 嚮導艦に該当する艦種は軽巡洋艦(二等巡洋艦)であった[注釈 1][注釈 3]。
帝国海軍は、駆逐艦3隻もしくは4隻からなる駆逐隊を3-4個束ね、水雷戦隊を編成していた[注釈 4]。 駆逐隊司令(階級は原則として大佐、まれに中佐)が坐乗する駆逐艦を「司令駆逐艦」と呼称した。麾下の駆逐隊司令を指揮する水雷戦隊司令官(階級は少将)は、軽巡洋艦を旗艦とした[注釈 4]。なお、特型駆逐艦として知られる吹雪型駆逐艦を、嚮導駆逐艦の一種として解説した1938年(昭和13年)の文献もある[注釈 2][8]。
太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後は、駆逐艦が水雷戦隊旗艦を務めることもあった(第三次ソロモン海戦時の朝潮型駆逐艦「朝雲」〈第四水雷戦隊旗艦〉、ルンガ沖夜戦時の夕雲型駆逐艦「長波」〈第二水雷戦隊旗艦〉、第二次ベララベラ海戦やセ号作戦時の陽炎型駆逐艦「秋雲」〈外南洋部隊増援部隊/第三水雷戦隊旗艦〉、多号作戦や北号作戦時の朝潮型駆逐艦「霞」〈第二水雷戦隊旗艦〉など)。また駆逐艦としては大型の秋月型駆逐艦が就役すると、水雷戦隊や戦隊の旗艦として運用した事例もある。
脚注
編集注釈
編集- ^ a b c d e 超驅逐艦たる水雷戰隊嚮導艦は、歐洲戰爭中著しく發達した新艦型であつて、驅逐艦を以て編成せる水雷戰隊を戰闘に導かんが爲使用せられたもので、驅逐艦に比すれば幾分大型であり、戰隊司令官坐乗し、作戰上至大の便益を得たものである。之は輕便なる艦型の一であり、砲力比較的大に、通信装置も亦優秀であつた爲め、過般の戰爭に於て頗る有用のものたるを示したのであつて、當時一般に承認せられた所である。尚此等大型の驅逐艦が巡洋戰艦々隊の障屏となることも認められたのであるが、それは主として波荒き海上に於て、高速力を維持するの能力を具へて居る爲であった。
歐洲戰爭の期間中交戰者たる列國海軍が、米國を除き此の型種の艦多數を製造した事實に徴すれば、其の價値あることを證明するに足りる。則ち英國は三十四隻を下らざる本型種の艦を其の艦隊に加へ、獨逸は又未曾有の大さと武力を有する水雷戰隊嚮導艦を起工し、伊國及日本に於ては共に或着目に値すべき計畫上の發展を見た。佛國の新造艦案中には又二千噸の嚮導艦六隻を包有し、米國海軍省も亦之が建造上尚議會の協賛を經ることを要するけれども、本型種の艦に對する計畫を準備したものとして知られてゐる。
華府會議結了後は、列國とも其の精神を尊重するの意に出づるのか、将た又財力の如何に由るのか、水雷戰隊嚮導艦の如き小型種の輕巡洋艦に類する者を建造する代りに、砲力速力共に優秀なる輕巡洋艦をして、水雷戰隊嚮導艦の任務に就かしむる傾向を生ずるに至つた。[3] - ^ a b 「四、列國の嚮導驅逐艦 日本」/日本海軍には嚮導驅逐艦なる類別はありません。ですから新型一等驅逐艦中の大型を假に嚮導驅逐艦として説明しませう。昭和八年(一九三三年)三月竣工した駆逐艦響は基準排水量一,七〇〇噸の雷級二十三隻(深雪缺)中の最新のものであります。この級の排水量も猶ほ制限度より一五〇噸少いのです。其後計畫建造せられたものは一,五〇〇噸以下となつてゐます。[5]
- ^ (性能比較表略)以上の二表を對照するに日米兩國は特に水雷戰隊嚮導艦と稱するが如き小型輕巡洋艦を建造せずして、輕巡洋艦を以て之に代へつゝあることは、各種演習に於ける部隊の編成上明白なる所であるが、歐洲戰爭に直接の關係を有つてゐた英佛伊の三國中、英伊のみ依然として水雷戰隊嚮導艦なる名稱を附し、大型驅逐艦に酷似するものを建造しようとするのは、大正十一年六月佛國兩院を通過した同國の製艦計畫に對抗するの意ではないかを疑ふのである。(以下略)[6]
- ^ a b 「五、水雷戰隊」/驅逐艦は、分離別働し得べき最少單位ではありますが、其の戰闘力は小さすぎて、一隻丈では成功の望みが少いために、其の幾隻かを集めて一隊を編制し、其の兵力を集合して有力なる戰闘單位としなければなりません。これが即ち驅逐隊であります。そして驅逐隊の本務は水雷戰を其の職分とし、特に夜間の接戰を重要なる任務とする關係上、之に適するやうな編制が必要であります。現今四隻編制が最も良いと考へられますが、三隻編制としてゐる處もあります。
そして多數の驅逐艦を運用、指揮統率し、協同動作を遂げさせるために編制せられたものを、水雷戰隊と稱するのであります。通常一隻の旗艦と數隊の驅逐隊とから編成せられ、その指揮統率のため将官を配し、別に快速巡洋艦一隻を其の旗艦とし全隊の指揮統率を司るのであります。[7]
出典
編集- ^ a b #海軍参考年鑑(大正13年)、コマ25-26(原本17-19頁)「(二)水雷戰隊嚮導艦及驅逐艦」
- ^ #最新国防叢書(1938)、コマ16-17(原本12-14頁)「三、嚮導驅逐艦」
- ^ #海軍参考年鑑(大正13年)、コマ25(原本17頁)
- ^ #最新国防叢書(1938)、コマ18(原本16-17頁)「四、列國の嚮導驅逐艦 米國」
- ^ #最新国防叢書(1938)、コマ17(原本14-15頁)「日本」
- ^ #海軍参考年鑑(大正13年)コマ25(原本19頁)
- ^ #最新国防叢書(1938)、コマ20-21(原本21-22頁)「五、水雷戰隊」
- ^ #最新国防叢書(1938)、コマ20(原本20-21頁)「列國新嚮導驅逐艦」
参考文献
編集- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 伊藤正徳「二 補助艦研究篇/第二 驅逐艦の驚異」『日本海軍と軍縮』高瀬書房、1932年9月 。
- 伊藤正徳「第五章 駆逐戦隊は最も戦へり」『世界大海戦史考』中央公論社、1943年9月 。
- 西川速水『最新国防叢書.第6輯』科学主義工業社、1938年3月 。
- 藤田定市『海軍参考年鑑.大正13年版』有終会、1924年9月 。
- 松尾矗明「第四 日本とアメリカの軍備/(五)日本の水雷戰隊」『聯盟の危機と日米戦』忠誠堂、1932年12月 。
- 畝川鎮夫「精鋭を誇る我水雷戦隊」『少年海国読本』海事彙報社、1941年7月 。