和勇
生涯
編集北元の和寧王アルクタイの孫にあたる。1434年(宣徳9年)、アルクタイがオイラトのトゴンに殺害されると、子の阿卜只俺は明に帰順した。宣徳帝は阿卜只俺を左都督に任じ、北京に邸を賜った。1435年(宣徳10年)、阿卜只俺が死去すると、脱脱孛羅が指揮使の職を嗣ぎ、錦衣衛に俸給を受けた[1]。1453年(景泰4年)、前軍都督僉事に進んだ[2]。1457年(天順元年)、脱脱孛羅は都督同知に進み、和勇の姓名を賜った。両広で瑤族の反乱が多発していたため、和勇は游撃将軍となり、モンゴル人の降兵1000人を率いて征討に赴いた。ときに総兵の顔彪には将略がなく、反乱の勢いはますます盛んになっていた。広西巡撫の呉禎が降兵を殺して功績と称し、賞与を得たことから、顔彪はこれの真似をして、平民を殺して勝利と報告した。1463年(天順7年)、朝廷は顔彪の官を進め、和勇もまた右都督に進んだ。1464年(天順8年)、反乱討伐の功績に実体がなかったことが発覚すると、御史や給事中たちが顔彪らを弾劾した。和勇は俸給を停止され、事官に降格された。
1465年(成化元年)、趙輔と韓雍が大藤峡の反乱軍征討に出立すると、和勇は部下を率いて従軍した。その冬、反乱軍を破ると、左都督に進んだ。1467年(成化3年)、召還されて効勇営での訓練を監督した。和勇は大藤峡の戦いで趙輔と同等の功績を挙げたと訴えて、封爵を求めた。1469年(成化5年)6月、靖安伯に封じられた。1474年(成化10年)2月、死去した[3]。諡は武敏といった。
子の和忠は錦衣衛指揮使となった。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻156 列伝第44