呉文聰

日本の統計学者 (1851-1918)
呉文聡から転送)

呉 文聡(くれ あやとし/ふみあき、嘉永4年11月27日1851年12月19日) - 大正7年(1918年9月19日)は、日本統計学者慶應義塾大学教授。「国勢調査の生みの親」といわれる。

呉 文聡
人物情報
生誕 (1851-12-19) 1851年12月19日
日本の旗 日本江戸
死没 1918年9月19日(1918-09-19)(66歳没)
出身校 慶應義塾
学問
研究分野 統計学
研究機関 太政官正院政表課・慶應義塾大学
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経歴

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広島藩医呉黄石の次男として江戸青山(現在の東京都港区)に生まれた。母せきは箕作阮甫の長女[1][2]

三原洋学所[3]ならびに元治2年(1865年)に鉄砲洲慶應義塾に入学し卒業。明治8年(1875年)に太政官正院政表課(のちの内閣統計局審査官)に入り、国勢調査日本で行われていなかった頃から欧米のような国勢調査を実施しなければならないと主張したことで知られている。国勢調査は呉や杉亨二内藤守三らの尽力により明治38年(1905年)から実施予定であったが、日露戦争により延期され大正9年(1920年)に第1回の調査が行われ、以後今日まで続く。「東京統計協会」を創設し、雑誌『経済及統計』を創刊。ほか、内務省衛生局、駅逓局、農商務省などで統計整備に指導的役割を果たす。明治32年(1899年)から慶應義塾大学教授(統計学担当)。

明治22年(1889年)の東京市会議員選挙に麹町区から立候補したが落選した[4]。墓所は多磨霊園

研究内容・業績

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  • 専門は統計学。国勢調査の実施に尽力した。

栄典

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家族・親族

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精神科医呉秀三は弟[1][2][6][7]書家日高秩父は義弟[1]西洋古典学者呉茂一と文部官僚の日高第四郎は甥茂一は秀三の長男[1][2]、日高第四郎は日高秩父・リキ夫妻の四男[1][8][9][10][11]。 妻・やすとの間に6男3女をもうけた。長男・医学者[1][6][7]、四男・文炳経済学者[1][6][7]歌手高英男は妻の甥。

参考文献

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  • 『人事興信録 初版』人事興信所、明治36年(1903年)4月18日発行
  • 『人事興信録 第2版』人事興信所、明治41年(1908年)6月18日発行
  • 『人事興信録 第3版 く之部―す之部』人事興信所、明治44年(1911年3月25日発行
  • 『人事興信録 第4版』人事興信所、大正4年(1915年1月10日発行
  • 『人事興信録 第5版』人事興信所、大正7年(1918年9月15日発行
  • 水谷仁「学問の歩きオロジー わが故郷の偉人たち (3) - 現代につながる巨星たちの系譜」『Newton平成19年(2007年)4月号、ニュートンプレス、98-103頁。
  • 小谷野敦 著 『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』幻冬舎幻冬舎新書〉、平成19年(2007年)9月30日第1刷発行、ISBN 978-4-3449-8055-6

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「学問の歩きオロジー わが故郷の偉人たち (3) - 現代につながる巨星たちの系譜」、102頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本の有名一族』、160-162頁。
  3. ^ 同時期に三原洋学所で学んだ人物に、田坂虎之助(陸軍少将)、渡正元(元老院議官)がいる。
  4. ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
  5. ^ 『官報』第4586号、明治31年10月11日。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 初版』687頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第2版』甲810頁。
  8. ^ 『人事興信録 第2版』、甲1341頁。
  9. ^ 『人事興信録 第3版 く之部―す之部』、ひ7頁。
  10. ^ 『人事興信録 第4版』、ひ2頁。
  11. ^ 『人事興信録 第5版』、ひ2頁。

外部リンク

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