呂 広(りょ こう、生没年不詳)は、中国三国時代政治家医者。別名は呂博あるいは呂博望で、こちらの名の方が有名である[1]

生涯

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呂広(呂博・呂博望)の史書での記述は少なく、わずかに呂博が「少し医術によって有名で、脈を診察して病気をあてるのを得意とした」とあり、赤烏2年(239年)に呉の太医令となり、『玉匱針経』を編纂したことが知られている[2]

他の業績では、『黄帝衆難経』(『難経』もしくは『八十一難経』ともいう)に注釈をつけた最初の人物とされる[3]。呂広の注釈書は初にまだ存在が確認されているが、初に編纂された『宋史』では、唐末から五代十国時代初期にこの書が失われた可能性が記されている。

参考文献

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脚注

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  1. ^ 隋書』・『太平御覧』では、煬帝(楊広)の諱を避けるため、呂博もしくは呂博望で記されている。
    『隋書』亦称呂博望,『太平御覧』巻724引無名氏『玉匱針経序』称呂博望為呂博,即呂広,因隋代避煬帝諱改広為博。
  2. ^ 『玉匱針経序』云:呂博少以医術知名,善診脈論疾,多所著述。呉赤烏二年為太医令,選『玉匱針経』及注『八十一難経』,大行於世。
  3. ^ 阮孝緒中国語版著『七録』:『黄帝衆難経』一巻、呂博望注。