向宣政
向 宣政(むかい のぶまさ、永禄3年(1560年) - 元和4年4月25日(1618年6月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。出羽久保田藩家老。家格宿老廻座である向氏(のちに小鷹狩《小鷹垨》氏に改姓)の祖。通称は右近大夫。弟は向俊政(庄兵衛)。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄3年(1560年) |
死没 | 元和4年(1618年) |
別名 | 姉小路宣政 |
主君 | 佐竹義宣 |
藩 | 久保田藩 |
氏族 | 向氏[注釈 1] |
父母 | 父∶姉小路高綱 |
兄弟 | 宣政、俊政 |
妻 | 姉小路頼綱次女[1] |
子 | 向政次、向重政など2男2女 |
生涯
編集永禄3年(1560年)、誕生。飛騨国の姉小路氏三家(古川氏・小島氏・向氏)氏族の向氏一族と思われる。
はじめ飛騨国小鷹利城に住し、父である姉小路高綱の死後に城主となり、家督を継承して姉小路宣政と名乗ったとされる(持城に向小島城)。
しかし、幼少であったため、後見役の牛丸重親(牛丸氏)が城を乗っ取ろうと企て、それから逃れるべく家臣の後藤重元(帯刀)によって脱出した[2][注釈 2]。
天正年間中に、飛騨国から母の故郷である常陸国の戦国大名・佐竹義宣に仕官し、この頃姉小路頼綱の次女が正室として嫁いだ可能性が高い[3][注釈 3]。なお、弟の俊政も300石で仕官する。
関ヶ原の戦いの後に主君・義宣が出羽久保田藩へ転封となると、これに追随し横手城の城代となって2000石を知行する。
別説
編集宣政は、三木真頼(みつき)の次男で、最初は小鷹狩政宗と名乗ったという。小牧・長久手の戦いでは徳川家康側についたため、豊臣秀吉の命を受けた金森長近に滅ぼされた。浪人となり、後に佐竹氏に仕官したという。
逸話
編集子孫
編集宣政の長男・政次(清兵衛)は佐竹一族・石塚義辰(よしとき)の三女を娶ったが、父に先立って死去し、次男の重政が家督を継いだ。以後は廣政 - 守秋(庄九郎)と続き、飛騨姉小路氏一族の血脈を唯一保った。
宣政の弟・俊政は分家を起こしたが、一代で無嗣断絶となる。
向家(小鷹狩家)は幕末までに6人の家老を輩出し、家中屈指の名家となる。幕末に小鷹狩源太がいる。
なお、現在横手在住の迎氏は、向氏の別家である。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 三浦賢童編『秋田武鑑 全』(無明堂出版、1981年、原著者は「久保田家中分限帳」の著者)
- 『秋田県史 第1冊 藩治部』秋田県
- 『横手郷土史』
- 土居輝雄 編『『佐竹史探訪』』秋田魁新報社、1998年。ISBN 978-4870201781。
- 秋田公文書発行の系図目録1