吉良貞義
吉良 貞義/足利 貞義(きら さだよし/あしかが さだよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。三河国西条城主。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 興国4年/康永2年(1343年)[1] |
別名 | 弥太郎、上総禅門 |
戒名 | 実相寺殿敏蒙観省大禅定門 |
官位 | 従五位下、上総介、式部丞、左京亮 |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 |
主君 | 惟康親王→久明親王→守邦親王→足利尊氏 |
氏族 | 三河吉良氏 |
父母 | 父:吉良満氏、養父:吉良長氏 |
兄弟 | 貞氏、貞義、荒川貞弘、北条時国正室 |
子 | 満義、助時 |
生涯
編集鎌倉幕府の御家人として9代執権・北条貞時から偏諱を受けて貞義と名乗ったようである。弘安4年(1281年)の弘安の役の際、大将として石見国に下向したと伝わる[2]。その頃の石見地頭は「三河吉良右衛門」で、その末裔が羽隅氏を名乗り石見に土着したという。
弘安8年(1285年)の霜月騒動で父・吉良満氏を亡くし、吉良荘の領地が祖父・長氏に一旦返還されたため、長氏の養子となり所領を相続した。元亨3年(1323年)北条貞時の十三回忌供養では、一族の足利貞氏、斯波高経らと共に参加[3]。砂金100両、太刀一腰を進上した。吉良氏が史料に表れるのは、霜月騒動以来この時が初めてであり、幕府への再出仕がようやく許されたと思われる。
元弘3年(1333年)3月、足利高氏は幕命により楠木正成らの討伐軍大将として鎌倉を出立、三河国八橋[4]で軍議を開くが、既に幕府離反を決意していた高氏は、上杉憲房を貞義[5]の許へ使いに出し、決意を述べ貞義の意見を求めたが、貞義は「決意は誠に目出度い、むしろ決断が遅過ぎると思ったほど」と答え、高氏の考えを支持、これに自信を得た高氏は倒幕行動を開始する[6]。
建武2年(1335年)、中先代の乱が始まると、尊氏(高氏)・直義兄弟とともに行動し、建武政権から離脱する[7]。同3年(1336年)正月、今川範国、天野経顕など遠江国の軍勢を率いて、近江国勢多を攻撃した[7]。京都で後醍醐天皇方に敗れ、同年2月、足利氏とともに九州に落ちのびる[8]。その後、足利氏に従い、同年6月、入京する[8]。この時、石清水八幡宮に加賀国能美庄を寄進した[8]。同4年(1337年)3月、代官を伊予国忽那島に派遣し、細川皇海と連携して忽那義範と戦わせた[9]。
関連作品
編集- テレビドラマ
脚注
編集出典
編集- 「吉良町史 原始・古代・中世前期」
- 「吉良町史 中世後期・近世」
- 柳史朗「吉良氏十五代記」(1977年)
参考文献
編集- 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6。