吉益 亮子(よします りょうこ、1857年安政4年[4]〉 - 1886年明治19年〉)は、明治時代前期の日本の教育者。日本最初の女子留学生の一人。

明治5年(1872年)、シカゴ滞在中の女子留学生5名[1]。左から3番目(中央)に立っているのが亮子[2][3]

生涯

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父の吉益正雄の身分や経歴については情報が乏しいが、身分が「東京府貫属士族[5][6]であったことから幕臣であったと推定される[4]。また、医師・吉益東洞の子孫であると伝わる[7]。正雄は、明治2年(1869年)・明治3年(1870年)の『職員録』(官吏の名簿)に外務省の官吏として名前があり、明治4年(1871年)には東京府の官吏に転じていた[4]。正雄は、明治11年(1878年)、耕教学舎(青山学院の源流)の創設に、津田仙津田梅子の父)と共に関与している[4]

明治4年(1871年)11月、最初の女子留学生(上田悌子、亮子、山川捨松永井繁子津田梅子の5名)の一人として、岩倉使節団に同行してアメリカ合衆国へ留学した[8]。亮子は気立てが優しく面倒見の良い性格であり、最年少(満6歳)の梅子を親身に世話した[4]。しかし、亮子は大陸横断旅行中に雪のために眼病を患い、日々の学習にも支障が出て、官費留学生としての責務を果たせないことで精神的なダメージを負うに至った[9]。亮子は、滞米10か月余りの明治5年(1872年)10月、病のために帰国を願い出ていた悌子と共に、帰国を余儀なくされた[9]

帰国後、3人のアメリカ人女性宣教師が横浜に開設していた学校「アメリカン・ミッション・ホーム」で学んだ[10]。その後、明治8年(1875年)から明治13年(1880年)まで、「女子小学校」(のちの海岸女学校、青山学院の源流)の英語教師を務めた[10]

明治15年(1882年)11月、捨松と梅子が11年のアメリカ留学を終えて帰国すると、繁子(前年に帰国していた)が住んでいた益田孝の邸(益田孝は繁子の実兄)で、捨松・繁子・梅子の三人の留学仲間と再会した[11][注釈 1]

明治18年(1885年)、東京・京橋区南鍋町(現:東京都中央区銀座6丁目)に、私塾「女子英学教授所」を創設した[10][12]。しかし翌年の明治19年(1886年)秋、折から流行していたコレラの為に死去[10][12]。享年30[13]。結婚していたか否かは不明[10]

映像作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 上田悌子は、この時に姿を見せていない。亮子が明治19年(1886年)に死去してから約30年後の大正5年(1916年)に、捨松・繁子・梅子の3人と悌子が44年ぶりに再会したことが記録されている。詳細は「瓜生繁子#晩年」を参照。

出典

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  1. ^ 亀田 2005, p. 14
  2. ^ 寺沢 2009, p. 32
  3. ^ 山崎 1988, p. 49
  4. ^ a b c d e 寺沢 2009, pp. 70–72, 第3章 異国に娘を留学させた親たち:明治初年の外務省役人・吉益正雄(吉益亮子の父)
  5. ^ 東京府士族吉益正雄娘亮以下三名撰挙米国留学ノ儀伺”. 国立公文書館. 2022年5月28日閲覧。
  6. ^ 寺沢 2009, pp. 17–20, プロローグー岩倉遣外使節の出帆:見送りの人たちの目をひいた振袖姿の五人の少女
  7. ^ 秋山ひさ 1985, p. 82
  8. ^ 寺沢 2009, pp. 13–20, プロローグー岩倉遣外使節団の出帆
  9. ^ a b 寺沢 2009, pp. 43–45, 第2章 異国の生活をはじめた五人の少女:彼女たちの「黄金の日々」は終わる
  10. ^ a b c d e 寺沢 2009, pp. 113–115, 第5章 女子留学生派遣後の日本の家族
  11. ^ 亀田 2005, pp. 68–71, 第3章 帰国から再留学まで:1 帰国直後のできごと:1 日本人としての自覚
  12. ^ a b 松野良寅「会津藩女性と英学 (1):大山捨松を中心に」『英学史研究』第1991巻第23号、日本英学史学会、1990年、99-113頁、doi:10.5024/jeigakushi.1991.99ISSN 0386-9490NAID 130003624864 
  13. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「吉益亮子」(コトバンク)”. 2022年3月11日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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