吉田篁墩
吉田 篁墩(よしだ こうとん、延享2年4月5日(1745年5月6日) - 寛政10年9月1日(1798年10月10日))は、江戸時代後期の儒学者。幼名は虎之助。名は漢官。字は資坦、学生、学儒。通称は担蔵。別号に竹門、林庵、艾峰。水戸藩医吉田家6代目[1]。
生涯
編集延享2年(1745年)4月5日[3]、上総大多喜藩士藤井沢衛門定行の子として生まれた[1]。水戸藩医吉田篤信と奥山氏の間に江戸小石川の藩邸に生まれた[3]とするのは誤り[4]。なお、大多喜藩の下屋敷も小石川にあったため、出生地が小石川の大多喜藩邸だったとすれば辻褄は合うが、今のところ江戸生まれとする根拠はない[4]。
宝暦8年(1758年)4月23日、水戸藩側医慎斎吉田篤親の養子に入る[1]。宝暦9年(1759年)、慎斎の死により家督を相続した[3]。しかし、当時幼年だったため本禄100石は御預け、小普請組からのスタートとなり、その後も出世が進まないことに不満を募らせていった[5]。一度表医師に昇ったものの、安永5年(1776年)12月24日、粗暴な言動を理由に小普請組に降格となった[1]。安永8年(1779年)6月29日、目付と喧嘩し、嘲弄したとして遂に藩から追放され、先祖の苗字佐々木を名乗った[6]。従来、追放の理由として、当直にありながら市街に出て病人を診療し、後宮の急病人に対応できなかったからだとされてきたが[3]、篁墩に当直を務める程の地位はなく、他の記録とも相容れず、全くの虚説である[7]。
江戸、水戸出入禁止となった篁墩は、武蔵国熊谷宿に移って薬種業を営み、生計を立てた[8]。天明2年(1782年)1月末から3月まで禁を犯して江戸に滞在し[9]、2月、徳川宗翰17回忌で法要を務める浅草寺子院吉祥院主を介して恩赦を請うたが、年浅いとして認められなかった[10]。天明3年(1783年)6月19日、大雨により荒川が氾濫して熊谷の自宅が損壊し、下旬に江戸浅草吉祥院門前に売家を購入し、再び禁を破って移住した[11]。
一方、学業においては、すでに井上金峨に師事し、高い学識を養っていた[3]。安永6年(1777年)以前より漢籍古本の収集に着手し[12]、天明4年(1784年)秋、『足利学校書目』を入手[13]、これに触発されてか[14]、『古文孝経孔氏伝』で中国に名を馳せた太宰春台を目標とし、校勘学の追究を決意した[15]。『足利学校蔵書附考』を纏めた後、古書の収集を続けて校勘を行い、特に何晏『論語集解』の校勘に力を注いだ。
50歳を超えると、収集した貴重書は売り払い、子孫のため田地を購入した[3]。寛政10年(1798年)9月1日痢病により死去した[3]。墓所は台東区谷中大雄寺。
経歴
編集著書
編集家族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『水府系纂』巻29「吉田祐益某」 梅谷(1993)
- ^ 柏崎(1999) p.51
- ^ a b c d e f g h i 東条(1882)
- ^ a b c d e f 梅谷(1993) p.18
- ^ 柏崎(1999) p.54-55
- ^ 小宮山楓軒『楓軒紀談』第15冊 柏崎(1999) p.56
- ^ 梅谷(1993) p.19
- ^ 3月13日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.57
- ^ 3月13日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.58
- ^ 2月11日付書簡『艾峰手簡』 柏崎(1999) p.57
- ^ 7月12日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.59
- ^ 柏崎(1999) p.61
- ^ 『足利学校蔵書附考』序
- ^ 柏崎(2004) p.40
- ^ 9月3日付書簡『艾峰手簡』第1冊 柏崎(1999) p.63