吉田半十郎
吉田半十郎(よしだ はんじゅうろう、1831年(天保2年)9月 - 1897年(明治30年)8月26日)は、江戸・明治時代の囲碁棋士。江戸生まれ、本因坊秀和門下、五段。方円社設立において本因坊秀甫、中川亀三郎を助け、また名称の発案者とも言われる。
経歴
編集江戸芝新銭座で御納戸金御用達の富裕の家に次男として生まれる。本因坊秀和門に入り、17歳で初段。その後五段まで昇る。1857年(安政4年)の井上幻庵因碩との二子局(中押勝)は、棋譜に残る因碩の最後の対局となっている。1863年(文久3年)三段の時、秀甫と先二で十番碁を行う。
御城碁廃止後は棋士達は対局の機会が失われたが、1869年(明治2年)、36歳の時に本因坊跡目秀悦、林秀栄、中川亀三郎、安井算英、小林鉄次郎ら若手とともに研究会「六人会」を発足。豪商田口重次郎の援助により、毎月3回、中川、本因坊宅で1年ほど継続され、後に海老沢健造、白石喜三郎なども加わった。その後家元の家禄奉還、1873年の秀和の死などで碁界の基盤は弱まり、村瀬秀甫を加えた碁会などを続けたが、六人会の中の中川、小林、吉田を中心にして、秀甫を迎えて1879年(明治12年)に方円社を発足させた。
門下に酒井安次郎など数多い。娘の菊子は初段に進んだ。その子の吉田俊男も初段に進み、本因坊秀元、秀哉からも期待されたが、ジャパンタイムズ記者となり、『奇美談碁』(1915年)の著書がある。