吉江 景資(よしえ かげすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長尾氏上杉氏)の家臣。越後国吉江城主。魚津城の戦いにおける守将の一人とされる。

 
吉江景資
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永7年(1527年
死没 天正10年6月3日1582年7月21日
別名 与橘(通称)?
官位 織部佑
主君 上杉定実謙信景勝
氏族 吉江氏
父母 吉江宗信[1]
寺島長資中条景泰長忠
特記
事項
父・宗信との同一人説あり
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生涯

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大永7年(1527年)、越後西蒲原郡弥彦庄吉江の国人吉江宗信の子として誕生。

上杉謙信に旗本として仕え、謙信の関東や越中国出兵の際は春日山城留守居役軍監などを務めた。永禄10年(1567年)には下野国唐沢山城を守った。天正年間からは、能登国や越中を転戦した。

天正6年(1578年)の謙信急死後、景資ら吉江氏が守備する越中は織田信長配下の柴田勝家の攻勢に晒され、吉江一族は奮戦するも、本能寺の変の翌日の天正10年(1582年)6月3日、魚津城で父・宗信、長子寺島長資、次男中条景泰と共に親子3代揃って自害したと考えられている。享年55。しかし「魚津在城衆十二名連署状」の中には景資の名はなく、大きな謎として残っている。自害した日は信長が本能寺の変で自害した翌日であった。

家督は遺子・長忠が継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『『戦国人名辞典』の吉江景資の項の執筆者福原圭一は、花押の形状から宗信が景泰の父景資と同一人であるとする。『上杉年譜』天正2年(1574年)6月20日の条にも「吉江常陸介宗信カ男与次ヲ家督ニ命セラル」とあり、父子としている。一方、祖父であるとの見解は『越佐史料』の比定に基づくものであるが、金子拓氏は各書状の比較検討により景資(織部佑)と宗信(常陸入道宗ギン)が別々に実在したのは間違いないとし『越佐史料』の比定を支持している。(『大日本史料第十編之二十三編纂ノート』)』

出典

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  • 『越佐史料』
  • 『上杉家御年譜』
  • 『中条家文書』

関連作品

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外部リンク

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先代
吉江宗信
吉江家当主
? - 1582
次代
吉江長忠