右田ヶ岳城
右田ヶ岳城(みぎたがたけじょう)は、周防国佐波郡右田(山口県防府市)にあった日本の城(山城)。
右田ヶ岳城 (山口県) | |
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右田ヶ岳城遠景 | |
別名 | 右田ヶ嶽城、右田城、右田岳城 |
城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 右田氏 |
築城年 | 鎌倉時代末期 |
主な城主 | 右田氏、南方就正 |
廃城年 | 不明(安土桃山時代末期?) |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
位置 | 北緯34度05分11.5秒 東経131度33分25.0秒 / 北緯34.086528度 東経131.556944度座標: 北緯34度05分11.5秒 東経131度33分25.0秒 / 北緯34.086528度 東経131.556944度 |
地図 |
概要
編集右田ヶ岳の山頂に築城されており、頂上は東・中・西の3つに分かれている城。西部に本丸があり、その東下に二の丸がある。大内氏の本拠・山口防衛の要衝であり、急峻な右田ヶ岳により天然の要害となっていた。
沿革
編集鎌倉時代末期に、大内氏の庶流・右田氏が築城し、代々在城した。
天文24年(1555年)に、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した(防長経略)。その際に城主であった右田隆量は、野田長房と共に籠城したが、毛利元就の勧告に従い降伏して、毛利氏に仕えた。
後に毛利氏家臣の南方就正が城番として入城し、永禄12年(1569年)の大内輝弘の山口乱入(大内輝弘の乱)では、就正がこの城より出撃し、輝弘を撃退した。
その後の歴史は不明だが、江戸時代初期には廃城となっていた。
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 右田ヶ岳のご案内 - 右田ヶ岳山麓にある天徳寺のウェブサイト - ウェイバックマシン(2013年6月14日アーカイブ分)