古川兼秀
古川 兼秀(ふるかわ かねひで、1901年(明治34年)9月2日[1] - 1974年(昭和49年)[2])は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡北道知事。平安南道知事。
経歴
編集古川兼定の二男として[1]、福島県若松市(現会津若松市)に生まれる[3][注 1]。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する[1]。専売局属、江原道地方課長、平安南道地方課長、咸鏡北道財務部長、黄海道警察部長、平安北道警察部長、警務局図書課長、保安課長などを経て、1942年(昭和17年)10月、咸鏡北道知事に就任した[1]。のち平安南道知事に任じた[4]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』朝鮮91頁では徳島市生まれ。
出典
編集- ^ a b c d 帝国秘密探偵社 1943, 朝鮮91頁.
- ^ “【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(24)警察官の半数近くが朝鮮人だった 映画『望楼の決死隊』に見る実相”. 産経新聞 (2018年6月23日). 2020年3月2日閲覧。
- ^ 解放社 1928, 107頁.
- ^ 『朝鮮総督府平安南道知事古川兼秀叙位の件』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ、昭和25年5月26日。
参考文献
編集- 『ヂャーナリズム部隊の戦士』解放社、1928年 。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年 。