古屋慶隆
古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日[1] - 1945年3月10日)は、戦前日本の政治家。岐阜県恵那市出身。古屋家は典型的な地方の名望家であり、慶隆の父・善造も衆議院議員を1期務めた[2] 。
古屋 慶隆 ふるや よしたか | |
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生年月日 | 1879年12月18日 |
出生地 | 日本 岐阜県恵那市 |
没年月日 | 1945年3月10日(65歳没) |
出身校 | 明治大学 |
所属政党 |
憲政会 立憲民政党 国民同盟 立憲民政党 |
親族 |
古屋善造(父) 古屋亨(長男) 古屋圭司(孫) |
来歴・人物
編集1903年明治大学法律科卒業[3]。大井町議会議員、所得税調査委員を経て1915年第12回衆議院議員総選挙で無所属で立候補し初当選。当選後立憲同志会に入党。その後憲政会、立憲民政党に所属。1928年の第16回衆議院議員総選挙に落選したのを唯一の例外として、1942年の翼賛選挙まで連続9回当選した。加藤高明内閣及び第1次若槻内閣で鉄道参与官を務めたのち[2]、1931年1月民政党総務に就任し[2]、同年4月には第2次若槻内閣の内務政務次官となった[2]。その後民政党を離党し国民同盟の総務を務めたが[2]、国民同盟を離党して民政党に復党。政党解消、大政翼賛会発足後は翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会に所属し、翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。1945年3月10日の東京大空襲で焼夷弾の直撃を受け65歳にて死亡[2]。
古屋の政治家としての業績は高山本線、太多線、明知線及び旧制恵那中学校(現・岐阜県立恵那高等学校)の開設に尽力したことがあげられる。