厲共公[1](れいきょうこう)は、の第17代公。悼公の子。躁公懐公の父。

厲共公
第17代公
王朝
在位期間 前476年 - 前443年
都城 雍城
諡号 厲共公
生年 不詳
没年 厲共公34年(前443年
悼公
陵墓 人里

生涯

編集

悼公14年(紀元前477年)、悼公が薨去すると、後を継いで秦公となった。

厲共公2年(紀元前475年)、蜀の人が秦に来貢してきた。

厲共公16年(紀元前461年)、黄河に沿って溝を掘って大茘(だいり)[2]を攻撃し、その王城を取った。

厲共公21年(紀元前456年)、秦は初めて頻陽を県とした。この年、が侵攻して武城を取られた。

厲共公24年(紀元前453年)、晋において内乱が起き、晋はに分裂した。これより中国は戦国時代に入る[3]

厲共公25年(紀元前452年)、晋の内乱で殺された智瑶の一族である智開中国語版が秦に逃れてきた。

厲共公33年(紀元前444年)、秦は義渠[4](ぎきょ)を撃ってその王を捕虜とした。

厲共公34年(紀元前443年)、薨去し、子の躁公が立って秦公となった。

脚注

編集
  1. ^ 『史記』秦本紀による。同書秦始皇本紀は剌龔公とする。
  2. ^ (じゅう)の一種。現在の陝西省渭南市大茘県
  3. ^ 紀元前403年威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられた年から戦国時代の始まりとする説もある。
  4. ^ 戎の一種。

参考資料

編集
  • 史記』(秦本紀第五)