印東玄得
幕末から明治にかけての医学者
印東 玄得(いんどう げんとく[2][3]、1850年(嘉永3年) - 1895年(明治28年)11月25日[4][5])は、幕末から明治にかけての医学者。東京大学助教授[4]。
人物情報 | |
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別名 | 坪井玄得 |
生誕 |
1850年??月??日 日本和歌山県 |
死没 | 1895年11月25日 (45歳没) |
出身校 | 慶應義塾[1]・大学東校・東京医学校 |
学問 | |
研究分野 | 医学 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
経歴
編集1850年、紀伊新宮生まれ[5]。本姓は坪井で[4]、後に印東氏を継いだ[2]。東京に出て、大学東校に入る[2]。
1876年、東京医学校卒業[6]。准医学士となり、薬物学に長ず[4]。
1879年、東京帝国大学助教を拝命[4]。1881年頃、助教授に任じ、1884年10月に花岡院長の没後を継いで第一医院副院長心得となり、1887年10月に医学士の称号を授与される[4]。阿部泰蔵等と明治生命保険を創立[4]、その保険医となる[5]。1895年11月25日、東京に没す。墓所は台東区の祝言寺[4]。
脚注
編集- ^ 『慶応義塾塾員名簿 昭和17年版』死亡者654頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月22日閲覧。
- ^ a b c 『大日本人名辞書 訂正増補版』242頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月22日閲覧。
- ^ 「いんどう げんえ」の読みになっているものもある。
- ^ a b c d e f g h 『国民過去帳 明治之巻』476頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月6日閲覧。
- ^ a b c 印東 玄得とはコトバンク。2020年12月6日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 明治33-34年』第二十章 学士及卒業生姓名 医学士512 - 513頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月6日閲覧。
参考文献
編集- 『東京帝国大学一覧 明治33-34年』東京帝国大学、1886 - 1912年。
- 経済雑誌社編『大日本人名辞書 訂正増補版』経済雑誌社、1917年。
- 大植四郎『國民過去帳』尚古房〈明治之巻〉、1935年。doi:10.11501/1262271。 NCID BA76087495。全国書誌番号:46053258 。
- 慶応義塾編『慶応義塾塾員名簿 昭和17年版』慶応義塾、1942年。
- 「福沢諭吉書簡」『近代日本研究』第22巻、慶應義塾福澤研究センター、2005年、317-340頁、ISSN 0911-4181、CRID 1050564287347473152。
- CiNii(印東 玄得著作)