単冠湾
概要
編集北緯44度57分0秒 東経147度41分0秒 / 北緯44.95000度 東経147.68333度座標: 北緯44度57分0秒 東経147度41分0秒 / 北緯44.95000度 東経147.68333度に位置する。太平洋に面し、南東側に開けている。湾口の幅は約10km。冬季でも流氷が接岸しない天然の良港である。
和名は、アイヌ語で「ヤマブドウの皮」を意味するhat(ヤマブドウ)・kap(皮)に由来する。ロシア名は、カサトカ湾(Зал. Касатка[1]、カサートカ湾)と呼ばれる。これは、「シャチの湾」の意[2]である。
1941年11月23日大日本帝国海軍第一航空艦隊(機動部隊)が単冠湾泊地に集結し、同26日に真珠湾攻撃のため艦隊がハワイへ向け出港した。
漁船集団遭難
編集1970年3月16日、発達した低気圧を避けるために日本の底引網漁船19隻が次々と単冠湾に避難。翌17日には湾内で9隻が風に吹き寄せられた流氷に閉じ込められ船体などが破損、うち4隻は船体放棄して、乗組員はソ連側に救助される、または択捉島に上陸を余儀なくされた[3]が、この過程で30人が死亡または行方不明となった[4]。生存した乗組員の大半は同年3月23日に巡視船宗谷で帰還[5]。収容された遺体18人分は、同年4月にソ連側から返還されている[6]。
脚注
編集- ^ 『Внешняя политика Японии(和訳:日本の外交政策) 1939年9月~1941年12月』
- ^ 大泰司紀之、本間浩昭『知床・北方四島 カラー版 流氷が育む自然遺産』岩波書店、2008年、89頁。ISBN 978-4-00-431135-5。
- ^ 流氷、漁船閉じ込める 緊急入域中野9隻『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月13日朝刊、12版、15面
- ^ 涙流して抱き合う岸壁 択捉の集団遭難漁船員帰る『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月21日夕刊 3版 11面
- ^ 涙流して抱き合う岸壁 択捉の集団遭難漁船員帰る『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月23日夕刊 3版 11面
- ^ 「18遺体帰る 択捉沖遭難」『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月13日朝刊、12版、15面