南部利幹
南部 利幹(なんぶ としもと)は、江戸時代中期の大名。陸奥国盛岡藩の第6代藩主。官位は従五位下・信濃守、大膳亮。
南部利幹 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄2年閏1月20日(1689年3月11日) |
死没 | 享保10年6月4日(1725年7月13日) |
改名 | 尚信、信応、利幹 |
別名 | 吉助、左近、主馬(通称) |
官位 | 従五位下信濃守、大膳亮 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 陸奥盛岡藩主 |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 父:南部行信、母:心光院 |
兄弟 | 実信、信恩、利幹、青山幸督正室、牧野英成正室、南部直政正室、艶姫、幕子ら |
妻 |
正室:蜂須賀隆長の養女・春姫 側室:橋本氏の娘・貞林院 |
子 |
利雄、信起 養子:利視 |
略歴
編集元禄2年(1689年)、第4代藩主・南部行信の4男として誕生。初め、父の命令により三戸氏を称した。宝永3年(1706年)1月5日、兄で先代藩主の信恩が死去したため、末期養子として家督を継いだ。同年1月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。同年12月18日、従五位下・信濃守に叙任する。
宝永5年(1708年)、荒廃した白山神社の再興のため、本殿(県指定有形文化財)を勧請する[1]。
領内の銅減産も重なって、盛岡藩では財政難が進行し、江戸の借財が10余万両にまで膨らみ、参勤交代費用にも窮する事態となった。これにより、享保8年(1723年)には家老以下を更迭し、諸役人を減員する倹約政策を断行して一定の効果を得た。しかし、他方では強引な政策に家臣の不満が高まった。
享保10年(1725年)に死去し、跡を養子の利視(兄・信恩の次男)が継いだ。また、次男の南部信起は家格寄合席の旗本となった。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 藩主人名事典編纂委員会編集『三百藩藩主人名事典 第1巻』(新人物往来社、1986年)