南洲翁終焉之地
西郷隆盛の石碑
南洲翁終焉之地(なんしゅうおうしゅうえんのち)は、鹿児島県鹿児島市城山町にある西郷隆盛(南洲翁)が自刃した場所を示す石碑[1][2]。「西郷隆盛終焉の地」として鹿児島市の記念物(史跡)に指定されている[2]。
城山の戦いと西郷隆盛の死
編集1877年(明治10年)に勃発した士族反乱である西南戦争の終盤、鹿児島へ戻った西郷隆盛らは、9月1日に鹿児島城の背後にある城山を急襲して立てこもった[3]。
同年9月24日午前4時、城山に立てこもってた西郷隆盛らの軍勢に対して明治政府(大日本帝国陸軍)側からの総攻撃が始まり、西郷隆盛らは立てこもっていた洞窟から岩崎谷に向けて歩を進めた[4]。洞窟を出たのちに西郷隆盛は島津応吉邸付近で腰と大腿部を銃弾で撃ち抜かれ、徒歩が困難となった西郷隆盛は別府晋介に介錯をさせて自刃した[4][5][6]。
→詳細は「城山の戦い」を参照
石碑の建立
編集「南洲翁終焉之地」の石碑は1899年(明治32年)9月に建立されたものである[7]。鹿児島市長であった山本徳次郎を委員長とする南洲祠堂常設委員会は建てられてあった石碑と土地を鹿児島市へ寄付し[2]、寄付を受けた鹿児島市は公園の付属地として管理することとなった[8]。1974年(昭和49年)3月15日には「西郷隆盛終焉の地」として鹿児島市の記念物(史跡)に指定された[9]。
石碑の裏面には以下のように記されており[8][1]、西郷隆盛の最期の概要をうかがい知れる[2]。
交通アクセス
編集脚注
編集- ^ a b 鹿児島市 1971, p. 784.
- ^ a b c d 鹿児島市の文化財六訂版編集委員会 2020, p. 135.
- ^ 佐々木克 1991, p. 2.
- ^ a b 鹿児島県 1943, p. 1003.
- ^ “Ishin(平成30年冬季号)”. 維新ふるさと館 (2018年). 2022年4月24日閲覧。
- ^ 谷田智恒 (2016年3月8日). “西郷洞窟(鹿児島市) 維新の英傑、最期の5日間過ごす”. 産経新聞. 2022年4月24日閲覧。
- ^ 鹿児島市 1971, p. 917.
- ^ a b 鹿児島市 1924, p. 119.
- ^ 鹿児島市 1990, p. 968.
- ^ “西郷隆盛終焉の地”. 鹿児島県. 2022年4月24日閲覧。
参考文献
編集- 鹿児島市『鹿兒島市史』鹿児島市、大日本帝国、1924年6月16日。, Wikidata Q111372569
- 鹿児島県「鹿兒島縣史 第四巻」『鹿児島県史』第4巻、1943年3月31日。, Wikidata Q111311713
- 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史Ⅲ』 3巻、鹿児島市、1971年2月28日 。, Wikidata Q111372808
- 佐々木克「西南戦争における西郷隆盛と士族」『人文學報』第68巻、京都大学人文科学研究所、1991年3月、1-46頁、doi:10.14989/48351、ISSN 0449-0274。
- 南日本新聞『鹿児島市史Ⅳ』 4巻、鹿児島市、1990年3月15日 。, Wikidata Q111372875
- 鹿児島市の文化財六訂版編集委員会『鹿児島市の文化財 六訂版』鹿児島市教育委員会、2020年3月 。
関連項目
編集外部リンク
編集座標: 北緯31度36分5.44秒 東経130度33分20.63秒 / 北緯31.6015111度 東経130.5557306度