南法華寺
南法華寺(みなみほっけじ)は、奈良県高市郡高取町壺阪にある真言宗系単立の寺院。山号は壺阪山。本尊は十一面千手観世音菩薩。一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られる。西国三十三所第6番札所。
南法華寺 | |
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三重塔 | |
所在地 | 奈良県高市郡高取町壺阪3 |
位置 | 北緯34度25分35.6秒 東経135度48分37秒 / 北緯34.426556度 東経135.81028度座標: 北緯34度25分35.6秒 東経135度48分37秒 / 北緯34.426556度 東経135.81028度 |
山号 | 壺阪山 |
宗旨 | 真言宗 |
宗派 | 単立 |
本尊 | 十一面千手観世音菩薩 |
創建年 | 大宝3年(703年) |
開山 | 弁基 |
正式名 | 壺阪山 南法華寺 |
別称 | 壺阪寺 |
札所等 |
西国三十三所第6番 神仏霊場巡拝の道第38番(奈良第25番) |
文化財 | 礼堂、三重塔、鳳凰文磚ほか(重要文化財) |
公式サイト | 眼病封じのお寺・お里沢市の霊蹟 西国霊場第六番・神仏霊場奈良25番 壺阪寺 |
法人番号 | 7150005005147 |
本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:岩をたて水をたたえて壺阪の 庭のいさごも浄土なるらん
歴史
編集草創については不明な点が多いが、寺蔵の『南法花寺古老伝』によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが当寺の始まりであるという。後に元正天皇の祈願寺となった[1]。
平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し当寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。承和14年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せられている。貴族達の参拝も盛んであり、清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪、高野、石山、粉川、志賀」と霊験の寺の筆頭に挙げられている。また、寛弘4年(1007年)左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊している[1]。
往時は36堂60余坊もの堂舎があったが、嘉保3年(1096年)に火災にあい伽藍のほとんどが灰燼に帰した。その後、子島寺の真興上人が当寺の復興にあたり、これにより当寺は真言宗子島法流(壷坂法流)の一大道場となった[1]。
承元5年(1211年)に大門、僧房の罹災を始め、数度の火災にあい、戦国時代には戦乱に巻き込まれている。当寺を庇護していた越智氏の滅亡と共に衰退し、残ったのは室町時代の礼堂と三重塔くらいであった[1]。
慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀長の家臣で高取城主本多俊政が当山の伽藍復興に尽力し、江戸時代には高取藩主植村氏の庇護を受け栄えた[1]。
本尊の十一面千手観世音菩薩は眼病封じの観音様として親しまれ眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台として有名となった[1]。
当寺は眼病に霊験があることから1961年(昭和36年)に日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」が建てられている。他にも国の内外で福祉事業を展開している[2][1]。大講堂の北側に建っていたが、2021年(令和3年)6月に高取町内に移転し、跡地は駐車場になっている[3]。
1964年(昭和39年)よりインドで行っているハンセン病患者救済活動への尽力[1]に対する返礼として、インド政府から提供された古石を使用して1983年(昭和58年)3月に完成した「天竺渡来 大観音像」は、高さ約20m、総重量1,200トンの壮大なものである[4]。その他、インド渡来のものとしては、「天竺渡来 佛伝図レリーフ」、「天竺渡来 大石堂」などがある。
境内
編集- 八角円堂(本堂)- 江戸時代の再建。十一面千手観世音菩薩坐像を祀る。当寺の本堂は日本で初めて建立された八角堂ではないかという学説も出ている[3]。
- 礼堂(重要文化財)- 室町時代中期以前に再建されたものだが、江戸時代に大改築されている。そのため、昭和の大修理時に室町時代当時の礼堂に復元された。入母屋造、本瓦葺[3]。
- 三重塔(重要文化財)- 室町時代の明応6年(1497年)再建[3]。
- 慈眼堂 - 2006年(平成18年)秋落慶。老朽化した阿弥陀堂と回廊の部材を用いて建立された。初層には夫婦観音像、二層目には阿弥陀如来を祀る。インド人画家のカーマット氏による「釈迦佛伝図」が描かれている[3]。
- お里・沢市の像 - 人形浄瑠璃『壺坂霊験記』に出てくるお里・沢市夫婦の像[3]。
- めがね供養観音 - 高さ3m。インドで制作され、日本で組み立てられた[3]。
- 天竺渡来 佛伝図レリーフ「釈迦一代記」- 1987年(昭和62年)安置。高さ3m、全長50m、重さ300t。奈良教育大学教授の小川清彦が原図を描き、インドのカルナータカ州カルカラで延べ5万7,000人の石彫師の手によって製作され、日本で組み立てられた[3]。
- 七福神石像
- 天竺渡来 大石堂 - 納骨永代供養堂。総重量1,500t。インドのアジャンター石窟寺院をモデルとし、延べ12万人の日本・インドの人々によって彫刻され、日本で組み立てられた。内部には石造の仏舎利塔と十一面千手観音像と大日金輪像を祀る[3]。
- 鐘楼
- 天竺渡来 大釈迦如来石像(壺阪大仏) - 2007年(平成19年)11月開眼。身丈10m、台座5m[3]。
- 多宝塔 - 2002年(平成14年)4月落慶。大日如来坐像(平安時代作)を祀る[3]。
- 十三重石塔
- 灌頂堂 - 2005年(平成17年)4月落慶。慶長年間(1596年 - 1615年)に本多俊政が寄進した因幡堂の部材の大部分を用いて建立された。十一面千手観音菩薩(室町時代作)、豊臣秀長公像、本多俊政公像(安土桃山時代作)を祀る[3]。
- 仁王門 - 建暦2年(1212年)建立。入母屋造、本瓦葺。解脱上人貞慶が建立に関わったとされる。1998年(平成10年)の台風により屋根が半壊したため、2003年(平成15年)に現在地に移築・修理している[3]。
- 龍蔵宮
- 大講堂 - 2000年(平成12年)落慶。弘法大師像(鎌倉時代作)を祀る[3]。
- 天竺渡来 大涅槃石像 - 1999年(平成11年)安置。全長8m。インドで制作され、日本で組み立てられた[3]。
- 天竺渡来 大観音石像 - 1983年(昭和58年)3月12日開眼。全長20m、全重量1200t。インド政府によって提供された古石をインドの文化勲章受章者シェノイ氏とその一門、さらに延べ7万人のインド人石工の手によって66個のパーツに分けて制作され、日本で組み立てられた[3]。
- 五百羅漢 - 奥の院があった香高山の斜面の岩肌に刻まれている[3]。
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大講堂
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仁王門
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仁王像
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多宝塔
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灌頂堂
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慈眼堂
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礼堂
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八角円堂(本堂)
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天竺渡来 佛伝図レリーフ
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天竺渡来 大石堂入口
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大石堂 千手観音の石像
文化財
編集重要文化財
編集寺宝
編集行事
編集- 2月、6月を除く毎月18日 - 観音縁日
- 8月18日 - 施餓鬼会
前後の札所
編集所在地
編集- 奈良県高市郡高取町壺阪3