南天皇(なんてんのう、永享2年3月15日1430年4月7日)? - 長禄2年12月20日1459年1月24日))は、後南朝天皇尊雅王(たかまさおう)、十津川宮とも。 小倉宮恒敦後亀山天皇の子)の第四皇子とする。

南山義烈史』によると、興福院と追号し、は尊雅と言ったとされる。

生涯

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永享2年(1430年3月15日、小倉宮恒敦の第四皇子として、伊勢国司北畠教具の館で誕生したとされる[1]。母は野長瀬盛矩の娘、横矢姫であるという。

長禄元年(1457年)12月、長禄の変の際には、後南朝に仕えていた熊野八庄の野長瀬庄司である野長瀬盛高盛実兄弟らとともに逃げ、奥吉野十津川において帝に奉じられたとされる。

長禄2年(1458年)8月、再び赤松氏の遺臣である小寺藤兵衛豊職らの襲撃を受け、野長瀬盛実は死亡し、自身も重傷を負った。その後、野長瀬盛高に守護されて落ち延びる途中、同年(1459年)12月20日に紀伊国牟婁郡神ノ山村光福寺(現・三重県熊野市)にて崩御したとされる。

同寺の御位牌には「興福院殿南天皇都心位尊儀」とある。ただし、これらの伝説は江戸時代の史書に初めて現れるもので、同時代史料とは合わず、史実ではない。

脚注

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関連項目

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