南の局
豊臣秀吉の側室
略歴
編集天正8年(1580年)5月26日、秀吉は鳥取城を攻めると見せかけ、守りの手薄だった鹿野城を攻めた。
当時、山名豊国は毛利氏に従属しており、鹿野城には毛利の人質として妻や娘のあかね他、重臣の森下道誉・中村春続ら家臣達二十余人が収容されていた。秀吉は鹿野城を容易に陥落させると人質を奪い、彼らを連行した後、鳥取城を包囲した。秀吉は人質を助命する代わりに開城を迫ったが、豊国が応じなかったため、見せしめとして家臣の家族達を磔にし、一人一人処刑していった。豊国は次々と家臣の家族達が処刑されていっても、依然として開城には応じなかったが、自分の娘のあかねが磔にされると、ついに開城した。秀吉はあかねの命は助けたものの、開城が遅いということで豊国との因幡国安堵の約束を反故にし、二郡のみを与えて引き上げた。その後、豊国は家臣たちによって鳥取城から追放された。
あかねは秀吉の側室となった。豊国は秀吉に従うことになり、天正9年(1581年)の第二次鳥取城攻めに加わった。
参考文献
編集- 桑田忠親『桃山時代の女性』吉川弘文館〈日本歴史叢書30〉、1972年。
- 楠戸義昭『豊臣秀吉99の謎』PHP研究所、1996年。ISBN 4569568564。
- 新人物往来社 編『物語女たちの太閤記』新人物往来社、1992年。ISBN 4404019505。