姓は三田、通称は小三郎、家号は虎屋と伝わり、京橋や本所常盤町に住んだという。卍楼と号す。喜多村信節の随筆『きゝのまにまに 続篇』の安政3年の項に「五月廿一日 画師万楼北鵞没、葛飾北斎戴斗門生」とあり、これにより葛飾北斎の門人だったこと、没年月日は安政3年5月21日であるのが知られる。画風も北斎そのままとの評がある。ただし「北鵞」とは同じく北斎の門人である抱亭五清の画号だったことから、五清の門人かともいわれている。作画期は天保から安政にかけてで、錦絵のほか摺物、狂歌絵本の挿絵、肉筆画を残す。
- 『狂歌古川百首』二巻一冊 狂歌本 ※六橋園渡編、天保年間刊行
- 「椿説弓張月巻中略図 山雄〈狼ノ名也〉主のために蟒蛇を噛で山中に躯を止む」 大判錦絵3枚続 東京国立博物館所蔵([1][2][3])
- 「落ち紅葉を掃いて手を洗う仕丁」 摺物 シカゴ美術館所蔵
- 「月下三舟図」 絹本墨画淡彩 日本浮世絵博物館所蔵 ※「卍楼北鵞筆」の落款、「卍樓」の白文方印あり
- 「朱鍾馗図」 絹本著色 個人蔵
- 「登り竜図」 絹本水墨 個人蔵 ※「丙辰孟春 卍楼北鵞画」の落款あり。「丙辰」は安政3年。
- 日本浮世絵博物館編『肉筆浮世絵撰集 解説』学習研究社、1985年 ※76頁
- 田中達也「抱亭五清の研究」『麻布美術館研究紀要』1号 麻布美術館、1986年 ※50頁
- 『北斎一門肉筆画傑作選 ―北斎DNAのゆくえ―』板橋区立美術館 2008年 ※109頁、121頁
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