千野忠男
千野 忠男(ちの ただお、1934年1月21日 - 2008年7月17日)は、静岡県藤枝市出身の大蔵(財務)官僚。血液型はO型[1]。正四位瑞宝重光章。
人物
編集ざっくばらんで竹を割ったような性格[2]。主計局主計官補佐時代には農林係主査を5年間務め、省内きっての農政通とされていた[2]。
事務次官候補として主計官補佐(主査)、主計局総務課企画官、主計官、大臣官房文書課長、近畿財務局長を経験していたが、大学時代にスタンフォード大学に長期間留学していたため、他の同期より年齢が上で、主計局長→事務次官の順番待ちの最中に定年の壁に引っかかるため、同期の篠沢を主計コースとし、千野は財務官となる国際金融コースへと変更となった[3]。
略歴
編集学歴
編集職歴
編集- 1960年4月 - 大蔵省(現・財務省)入省(大臣官房財務参事官付[5])
- 1962年6月 - 関東財務局理財部[5]。
- 1963年8月 - 大阪国税局調査査察部[5]。
- 1964年4月 - 大臣官房財務参事官付[5]。
- 1965年1月 - 関税局総務課[5]。
- 1965年7月 - 関税局企画課企画係長[5][6]。
- 1966年7月 - 弘前税務署長[5]。
- 1967年7月 - 国際金融局投資第二課長補佐。
- 1969年7月 - 主計局主計局補佐(外務係主査)。
- 1971年7月 - 主計局主計局補佐(農林第三係主査)。
- 1974年7月 - 主計局主計局補佐(農林第一係主査)。
- 1975年7月 - 主計局総務課長補佐(企画)[7]。
- 1976年7月 - 大臣官房企画官 兼 主計局総務課。
- 1977年7月 - 大臣官房財務官室長。
- 1978年12月 - 大蔵大臣秘書官事務取扱。
- 1980年 - 主計局主計官(総理府・司法・警察担当)。
- 1981年 - 主計局主計官(農林水産担当)。
- 1983年6月 - 銀行局銀行課長。
- 1984年 - 銀行局総務課長。
- 1985年 - 大臣官房文書課長。
- 1986年6月 - 近畿財務局長。
- 1987年7月 - 大臣官房審議官(銀行局担当)。
- 1989年7月 - 国際金融局長。
- 1991年7月 - 財務官。
- 1993年7月 - 顧問。
- 1993年8月 - (財)金融情報システムセンター理事長を兼務。
- 1994年6月 - 農林漁業金融公庫副総裁。
- 1996年9月 - 株式会社野村総合研究所顧問。
- 1996年11月 - 株式会社野村総合研究所理事長。
- 1999年1月 - アジア開発銀行総裁。
- 2005年4月 - 株式会社野村総合研究所顧問。
- 2008年7月17日 - 死去[8]。叙正四位授瑞宝重光章。
大蔵省同期
編集伊吹文明(衆議院議長、財務大臣、自民党幹事長)、篠沢恭助(国際協力銀行総裁、大蔵事務次官)、赤倉啓之(農林中金専務理事、大蔵省造幣局長)、伊藤博行(内閣官房内閣内政審議室長、関税局長)、吉川元信(大臣官房審議官)、土居信良(KSD理事、東京港横断道路専務、大臣官房審議官(大臣官房担当))など。
脚注
編集- ^ 『日本の官庁,その人と組織:大藏省,経済企画庁』政策時報社、1987年発行、302頁
- ^ a b 『日本の官庁,その人と組織:大蔵省,通商産業省,経済企画庁』国土政策研究会、1981年12月発行、232頁
- ^ 栗林良光『大蔵省権力人脈』講談社、1994年3月発行、84・85頁
- ^ 『東大人名録,第1部』1992年発行、46ページ
- ^ a b c d e f g 『大蔵省名鑑:昭和62年版』時評社、1986年発行、122頁
- ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1966年発行、377頁
- ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1976年発行、473頁
- ^ 47NEWS 千野忠男氏が死去 前アジア開発銀行総裁 Archived 2015年6月2日, at the Wayback Machine. 『共同通信』2008年7月17日
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