千葉高胤

鎌倉時代末期から南北朝時代初頭にかけての武将

千葉 高胤(ちば たかたね、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭にかけての武将千葉氏の一門・千田氏の第4代当主。

人物

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史料が少ないため、詳細については分かっていない人物であるが、『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 □継[注釈 1] 胤泰 胤基[注釈 2]」と歴代の記載があり、胤貞と胤平の間に「高胤」の名が記載されていることから、千葉胤貞の長男で千葉胤平の兄に比定される(系図類でもそうなっているものが多い)。また、『中山法華経寺文書』の中に「平[注釈 3]高胤」と明確に氏名が書かれ、その高胤が「肥前国小城郡東方内高胤手取内田地」を「中山殿」なる人物[注釈 4]に寄進している旨の文書が残っていることから、実在の人物であったことは確かである。

の「高」の字は、北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第14代執権北条高時より偏諱を受けて名乗ったものとみられ[注釈 5]。、少なくとも高時が執権職にあった正和5年(1316年)から正中3年/嘉暦元年(1326年)の間は生きていたと考えられる。『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』に誤りがない限り、地頭として小城郡を領していたことは確かであるが、建武元年12月1日1334年12月27日)に、千葉胤平が父・胤貞より肥前国小城郡と千田荘および八幡荘の総領職を継いでいることが史料で確認できる[6]ため、この年までには亡くなっており、死後は一旦父が再度家督および小城郡を継承してからそのまま弟の胤平へ継承されていったものとみられる。

尚、息子に胤親(たねちか、長男)、胤雅(たねまさ、次男)がいたとされ、胤親が原氏、胤雅が高城氏の祖になったとされている。


平高胤寄進状(『中山法華経寺文書』(*『千葉県史料』に収録))

肥前国小城郡東方内高胤手取内田地伍町在地令進之候、恐々謹言
  八月十三日[注釈 6]         [注釈 3]高胤上(花押)
   進上 中山殿[注釈 4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1文字目は虫食いになっているが通字の「胤」が入るとみられ、この人物は胤平の弟・胤継(たねつぐ)のことを指すとみられる。
  2. ^ 胤泰の嫡子で九州千葉氏の祖にあたる。
  3. ^ a b 千葉氏は平姓桓武平氏良文流)を称している家柄である。
  4. ^ a b 父・胤貞の猶子であった中山本妙寺日祐上人のことか。
  5. ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏もその統制下にあった[1][2]。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており[3][4](詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤北条泰時頼胤北条時頼宗胤胤宗兄弟が北条時宗胤貞貞胤北条貞時高胤北条高時から一字を拝領したと考えられる[5]
  6. ^ 年は不明。

出典

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  1. ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年。 
  2. ^ 肥前千葉氏調査委員会「「服部英雄 中世小城の景観・海から考える」」『中世肥前千葉氏の足跡 : 小京都小城の源流』佐賀県小城市教育委員会、2011年。hdl:2324/20437CRID 1130282270956311040https://hdl.handle.net/2324/20437 
  3. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、2004年。 
  4. ^ 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年、163頁。 
  5. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18。 
  6. ^ 『中山法華経寺文書』 建武元年12月1日付 千葉胤貞譲状。

外部リンク

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