千本為隆
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将
千本 為隆(せんぼん ためたか)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。那須七騎の一角・千本氏の祖。
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 那須為隆、戸福寺十郎[1]、通称:十郎 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 那須氏→戸福寺氏→千本氏 |
父母 | 父:那須資隆 |
兄弟 |
森田光隆(太郎)、佐久山泰隆、芋淵幹隆、福原久隆、那須資之(五郎)、滝田実隆、 沢村満隆、堅田義隆、稗田朝隆、為隆、 那須与一、那須頼資? |
子 | 信隆 |
生涯
編集治承4年(1180年)からの治承・寿永の乱では、9人の兄達が皆平氏方に与するなか、弟・与一と共に源氏方に加わった。しかし、後に源頼朝の弟・義経の命に背き罪を得たため[1]、一時期信濃国に逃れ戸福寺氏を称していたが、罪を許されると下野千本の地を賜り、千本氏を称する様になった[1]。建久年間(1190年~1198年)に千本城を築城した。
『源平盛衰記』においては、与一を凌ぐほどの弓の名手であり、元暦2年/寿永4年(1185年)の屋島の戦いにおいて、扇を射ることを義経から命令されたが、戦傷のため固辞し弟を推挙している。
脚注
編集出典
編集- 『寛永系図』
- 『源平盛衰記』
- 『那須七系』(千本)