千原勝則
千原 勝則(ちはら かつのり)は、安土桃山時代の武将。宇喜多氏の家臣。
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 慶長5年9月15日(1600年10月21日) |
別名 | 九右衛門(通称) |
主君 | 宇喜多秀家→浪人→宇喜多秀家 |
氏族 | 千原氏 |
父母 | 父:千原勝重 |
兄弟 | 勝則、喜右衛門 |
略歴
編集備中国西阿知の浪人、千原勝重の子として誕生する[1][2]。土木技術に長け、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いでは足守川の堰き止め工事を行った他、岡山城の改築普請では縄張りを行ったという[1][2]。
また、天正13年(1585年)には岡家利のもとで奉行を務めて備中国窪屋郡・都宇郡の干拓を行い、八ヶ郷用水を整備した[1][2]。
その後、中村次郎兵衛の讒言によって主家を退去するが、のちに帰参して慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦死した[1][2]。