北畠具雄
北畠 具雄(きたばたけ ともお、1854年5月8日(安政元年4月12日[1]) - 1925年(大正14年)12月15日[2])は、日本の華族、政治家。男爵、衆議院議員(3期)。
北畠 具雄 | |
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生年月日 | 1854年5月8日 |
出生地 | 大和国平群郡法隆寺村 |
没年月日 | 1925年12月15日(71歳没) |
所属政党 | 憲政本党 |
称号 | 男爵 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1902年 - 1908年 |
経歴
編集安政元年(1854年)4月12日[1]、大和国平群郡、のちの奈良県[2]平群郡法隆寺村[3](生駒郡法隆寺村を経て現斑鳩町)で、平岡鳩平(北畠治房)の長男として生まれた[3]。慶応義塾卒(年代不明)[2]。明治13年(1880年)に茨城県警水戸警察署長となる。翌14年(1881年)に福井県検察官となる。その後、神戸地方裁判所長・徳島地方裁判所長などを歴任する[4]。職を辞したのち杉田貞一とともに釧路に渡り、資本金40万円の共同汽船会社を興し、社長となる[5]。函館・釧路・根室を結ぶ航路を運営する同社は、1888年(明治21年)に開業許可を取得し、7月26日の2度目の航海で座礁事故を起こし、自船である釧路丸は航行不能となった。この事故を理由に、北畠は同社の社長職を辞している。同社は新船を購入し経営を立て直すも、1892年(明治24年)までには解散したことが報じられている[6]。また、石炭・硫黄鉱山の経営を手掛けたほか、北畠製茶合資会社なる企業を興している[5]。
1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙において奈良県郡部から憲政本党公認で立候補してトップで初当選する[7]。つづく1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙で再選する[8]。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で三選する[9]。1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。
父の死去に伴い1921年(大正10年)6月30日、男爵を襲爵した[10]。1925年(大正14年)12月15日死去[2]。
親族
編集脚注
編集- ^ a b 衆議院『第二十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1904年、11頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』217頁。
- ^ a b 『人事興信録 初版』997頁。
- ^ 斑鳩町史編集委員会 編『斑鳩町史』斑鳩町、1963年、831-832頁。
- ^ a b 奥田信義『奈良県現代人物誌 第1編』奈良新報社、1924年、666-667頁。
- ^ 『新釧路市史 第2巻』釧路市、1973年、851-853頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』37頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』42頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』46頁。
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成 上巻』498頁。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 北畠治房 |
男爵 北畠(治房)家第2代 1921年 - 1925年 |
次代 北畠千畝 |